李白詩 李白の人生と詩


   李白の人生と詩

T-1 李白の人生と詩の魅力について


1 李白の人生と詩の魅力について


1-1 第一の魅力


1-2 第二の魅力


1-3 第三の魅力


1-4 第四の魅力


1-5 第五の魅力


1-6 第六の魅力

2 家系と生い立ち


・15歳から18歳のころの詩


2-1. 家系と生い立ち


・20歳から24歳の頃の詩


2-2. 任侠と隠遁








T  李白の人生と詩の魅力について


1-1 第一の魅力

 李白のわれわれをひきつける一つの大きな点は、放浪に始まり放浪に終わるその生涯の生き方である。そこには最後までじめじめした暗さがない。現実の生活の苦しさもほとんど口にしないし、政治の不合理も語らない。仙人のように俗界を低く見、時には淵を飲んで気宇壮大となり、時には妓女を携えた宴会で談笑し、時には月を眺めて自然界に融けこんでいる。晩年には多少の寂しさは見られるけれども、とにかく一生を陽気に明るく送った人である。しかし、李白は生活の糧を得ることには、心を痛めることが多かった。しかし、それを詩に現わさない。杜甫は生活苦を歌い、政治・制度の不合埋を歌い、憤激して悲憤の涙を流すことが、自分の運命であるかのごとく、また、モのことを歌うことが、自分に与えられた便命であるかのごとく思った人であった。

 李白は何を使命としていたか。それはおそらく政治の中枢に参与して、人民のためによき政治をする側に居てその力を発揮させたかったのであろう。長安を追われて梁園で歌った「東山に高臥して時に起来ち、蒼生を済わんと欲すること米だ晩しとすべからず」とは、最後まで心の奥に潜んでいた気概ではなかったろうか。さればこそ、放浪中にもかかわらず安禄山の乱の討伐に参加しようとしたのでもあろう。
 とはいえ、李白は仙界を夢みつつ、世俗の現実には無関心のごとく酒を飲み、自然の美しさを楽しんでいることが多かった。南宋の嚴羽は『滄浪詩話』の中で、杜甫と比較して、李白の詩風を指摘している。すなわち、李白・杜甫両人の優劣はきめられない。それぞれにそれぞれの特色があるとして、
「子美不能為太白之飄逸。太白不能為子美之?鬱。太白、《夢遊天姥吟》《?離?》等、子美不能道。子美《北征》《兵車行》《垂老?》等、太白不能作。」
子美(杜甫の宇)は太白(李日の宇)の瓢逸たる能わず。太白は子美の沈僻たる能わず。太白の「夢に万がに遊ぶの岨」「遠く別離す」等は、子美はいう能わず。子美の「北征」「兵車行」「垂老別」等は、太白は作る能わず。

といっている。厳羽のいう評語の[瓢逸]とか「沈影」の意味するところは、じつは十分に分かりかねるが、「沈僻」はしばらく置き、「瓢逸」について考えてみよう。

 その引用する  《夢遊天姥吟留別》(卷十五(一)八九八)夢に天姥に遊ぶの吟」は、その題の示すように、浙江省天台県の西北にあって、天台山と相対する天姥山に遊ぶことを夢にみた形式で歌ったもので、李白自身は、このとき、北方の山東省滋陽県あたりを放浪しており、これから南遊するに当たっての作である。したがって、この時まで天姥山にはまったく行ったこともない。これは想像の文学であり虚構の文学である。この詩の中には、夢の中で一挙に南の紹興辺まで翔んで行き、やがて天姥山に登り、その仙境のすばらしさを美しく歌いあげている。「青冥は浩蕩がり底を見ず、口月は金銀の台を照輝かす。霓を衣と為し風を馬と為し、雲の君は紛紛として来たり下る。虎は認を敦し鸞は車を回らし、仙の人は飛なること麻の如し」と夢のような仙人の世界を歌って、作者自身もいつのまにか仙境に入って夢幻の世界に、心もうつろになっているようであるし、読者もまた夢幻の世界に思わず引きこまれてしまう。
 「遠く別離す」も、想像の文学であり、虚構の文学である。舜の死を追って指水に溺死した蛾皇・女英の二妃の悲しみを歌っている。これとても現実の事態を歌ったものではなく、はるか古えの堯・舜時代の伝説の世界に作者は入りこんで夢幻の世界に遊び、読者もその夢のような世界に思わず引きこまれてしまう。
 一方、杜甫の「北征」は、至徳二年〈七五七〉に鳳翔から?州にいる家族のもとに帰った道中記のような長篇の詩であって、杜甫の現実に体験した苫しみの道中、戦乱のあとの惨憺たる風景、家族との悲喜こもごもの再会、時局に対する批判などを歌ったものである。端的にいえば、杜甫は、現実に経験した事態を忠実に惑ずるがままに歌っているといえよう。彼のその他の詩も同様であるといえよう。
 厳羽が例に挙げた詩を比較してみれば、その特色の差異はおのずから分かるけれども、しからば「飄逸」とは何かといえば、的確に指摘することはできない。ただ、杜甫のように現実の事態を着実に歌うのではなくて、常識の世界を超えて、夢幻の世界に道ぶような表現をすることをいったものであることはほぼ想像される。
 ただ「瓢逸」を厳羽が、その意味だけに限ったかどうかは断定できない。しかし、さらに拡大して考えてみることも可能である。仙境のような夢幻の世界を描く詩は李白には確かに多い。
しかしまた、表現白体が常識を超えると思われるほどの誇張的表現が多い。また、李白の一生の行動自体も、当時の一般の文人の常識を超える。蜀から揚子江を下り、各地を遍歴する。これ自体がそもそも当時の文人の志すところではない。また、宮中に入っての酔態も普通の官原のなしりるところではない。また、追放以後の各地の遍歴も、その真の理由はじつは定かではないが、常人とは著しく異なる。親友の杜甫が家族を連れて生活苫にあえぎながら職を求めて放浪するのとはヽあまりにちがいすぎる。こうした当時の常識の線を超えた行動も、「瓢逸」とみなしてもよかろう。
 この書物で「瓢逸詩人」と称するのは、以上の意味をくるめて指しているので、敵羽の指すと思われるそのものからあるいは外れるかもしれない。
 李白の魅力の第一は、上のような意味での一瓢逸」にあるといえよう。


1-2 第二の魅力

 第二の魅力は、自然を美しく描写していることである。美しく自然を歌うことは、すでに六朝より始まり、唐代に伝統となって定着しているが、李白はことに自然を描くことを得意とする。上述の「夢に天妬に遊ぶの吟」のような空想性は、現実に見た自然を美麗に壮大にしあげてしまう。まことに「仙才」といわれる人にふさわしい。李白の描く自然は、六朝人のような限られた隠遁の世界ではないし、といって陶淵明のような田園生活の世界でもないし、また同時代の王維のような狭い山水の世界でもない。もっと広く自然を歌っている。
 ところで李白の詩は、概していえば平易の言語をもって表現している。のちの人の評に、李白の詩は、俗人に喜ばれやすいと、やや冷評を与えているが、なるほど杜甫が『文選』の言語をたえず駆使していたのと異なって、やさしく人に分かるように努力している。分かりやすい表現で人に感動を与えることに気を遺っているようである。故事の引用はむろん多いが、無理のない使い方をしている。「古風」五十九首における、詩に対する見解を見るに、六朝の斉・梁に見られる形式美を排することを主張する。そして、格律・対偶・殷飾などの束縛から脱しようと考えている詩の革新家でもある。その主張の現われが平易の表現の詩に趨らせたのであろう。


1-3 第三の魅力

 第三の魅力である。ただ彼は「古風」という詩を作るがごとく、詩の精神としては、『詩経』や『楚辞』のような「いにしえぶり」の精神に反り、漢・魏の詩に現われた風骨の精神に戻れという復古主義者でもあって、「大雅久しく作られず、吾衰えなば竟に誰か陳べん」(その一)と慨嘆する。この点では珍しくも初唐の陳子昂の古詩復帰論の継承者でもある。

 李白は各地を遍歴し、あまたの諸名勝を尋ね、優れた「天才」ともいわれている詩才によって、各地の諸名勝は、壮大にしかも美麗に歌い上げられて、読者もそこに共に遊ぶかのごとき思いをさせられる。「廬山の湯布を望む」(一九三。ヘージ参照)のごときは、いずれの句をとっても、
平易で容易に理解できる表現である。しかも、思いもよらぬ新鮮の表現である。これは常識を超えた空想性をもち、想像力の豊かさを示すものである。かくて読者は眼前に壮大な美しい廬山があり、その九天より落つるかと思われる三千尺の洋布を見る思いがして、率白の詩に吸いこまれてしまう。


1-4 第四の魅力

 第四の魅力は、右にすでに少しく触れたことでもあるが、ごく当たりまえのテーマを、やさしく簡単な表現で描写することである。蘇東披は、「李白の詩は、飄逸で浮世離れがしているが、平易であるという欠点がある」と評しているが、これが欠点であるかどうかは考え方のちがいで、とにかく李白詩の特色でもあって、人を魅きつけるところである。たとえば
靜夜思(卷六(一)四四三)

昧前看月光,疑是地上霜. 床前に月光を看る,疑うらくは是れ地上の霜か.

皐頭望山月,低頭思故郷. 頭を挙げて山月を望み,頭を低れて故郷を思ら.



 一読してみると、散文的でもあり、口語的調子でもある。しかも「故郷を思う」情が自然ににじみ出ている。平易な表現というものは、屈折のない自然の感情をそのまま出していることにもなる。
山中與幽人對酌(卷二三(二)一三四八)

雨人對酌山花開,一杯一杯復一杯. 両人対酌すれば山花開く,一杯一杯復た一杯.

我酔欲眠卿且去,明朝有意抱琴末. 収酔うて眠らんと欲す卿且く去れ,明朝意有らば琴を
抱いて来たれ



 これもなんの説明も要しない詩であり、読者の胸にそのまましみ入って感銘を与える詩であ
る。「早に白帝城を発つ」詩(ニハページ参照)にしても、三峡の険難を想像させるために、平易
な表現をとりつつ、新鮮な着想をもって「千里の江陵一日にして還る」と歌って、読者はその誇
張的表現でかえって、険難を想像することができる。


1-5 第五の魅力

 右に挙げた誇張的表現は、じつは李白詩の一つの特色で、われわれを鮭きつける第五の魅力で
ある。長篇の《  蜀道難(卷三(一)一九九)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)》を例にとれば、
蜀道難(卷三(一)一九九)

噫呼徹危乎高哉 噫肝蛾 危ういかな高きかな

蜀道之難難於上青天 蜀道の難きことは青天に上るより難し



などと多くの誇張的表現をとりつつ、長々と蜀道の難きことを長短句交えつつ歌ってゆく。読者は蜀道の険難に身ぶるいする思いがするであろう。
これらの誇張的表現こそ、まさしく李白詩の大きな魅力である。人口に膀灸されている「白髪三千丈」もその例の一つである。李白は誇張的表現をもって、多く自然の風物をさまざまの角度から歌う。これは李白のような豊富な想像力を持った人であってはじめてなしうることである。
自然の風物を歌うことはまた李白の豪放謀逸の性格にも関連する。彼の性格は、束縛から脱れて自由を愛する性格である。生まれつきでもあるし、その後、道教によってさらに成長していったものでもある。青壮年時代の各地の遍歴の理由の一つも、その性格の現われであるといってよい。その性格はまた自然の風物に近づけさせる。もっとも、彼の自由放逸の性格は陶淵明のように官僚を避ける方向ではない。李白はむしろ遍歴の各地で積極的に長官たちと交際している。人間ぎらいではない。しかも、自然の風物もこよなく愛している。広き自然のなかこモ、わが住む天地であるかのごとく思っている。こうした解放的閑達の気分が、彼をさらに自然に近づけさせ、またその自然を想像力豊富に、空想的ともいえる描写をとらせたのであろう。



1-6 第六の魅力

 李白の第六の魅力は、閔怨の詩が多いことである。その詩の多くは、孤閑にある妻の心情に同情して歌ったものである。むろんこれらの詩の発想が、六朝の楽府の影響であることは否定できない。ただ、李白自身、長く鞘旅の生活にあって、妻と同居したことは数えるほどしかなかったであろう。その妻を思い、妻に贈る詩はまま見ることができ、妻に対する愛情をくみ取ることができるが、むしろ留守を守る妻への愛情は、形を変えて一般的な閔怨の詩となって現われてきたように思われる。しかし、ただ妻を思うばかりが閔怨詩を生む原因ではない。長き歳月にわたる国境警備のための出征、また七年余にわたる安禄山の乱のための出征のため、これらによって留守家族が多くなり、その家族は夫の不在を悲しみ、帰るのをひたすら待ち望んでいた。唐の詩人は多くこうした留守居の妻の心に同情を寄せ、それを詩に歌わぬ者はないほどであった。出征のためばかりではない。都市の繁栄とともに商業が発達したため、商人たちの留守家族もしだいに増えてきた。当時こうした留守居の妻を歌う詩がようやく現われてきた。
 李白の閨怨の詩は、出征兵士を思う妻の心情を歌ったものが多い。後世に愛誦されている代表の一つは「子夜呉歌」であろう。

子夜呉歌四首其一(卷六(一)四五○)

子夜呉歌四首其二(卷六(一)四五一)

子夜呉歌四首其三(卷六(一)四五二)

子夜呉歌四首其四(卷六(一)四五三)
全唐詩卷165_29 《子夜呉歌。秋歌》李白

長安一片月,萬戸擣衣聲。 長安一片の月、万戸に衣を擾つの声。

秋風吹不盡,總是玉關情。 秋風吹いて尽きず、総べて是れ玉関の情

何日平胡虜,良人罷遠征。 何れの日か胡虜を平らげて、良人は遠征を罷む。
 秋風の吹く時節となり、夫の出征の玉門関あたりをしのび、早く帰ってくるのを侍ち望んでいる留守居の妻の心情が痛いほど感ぜられる。
 以上、李白の何がわれわれをひきつけるかを列挙して述べてきたが、じつは李白の詩を読んでいると、いくつかの特色がまだある。たとえば月の詩があり、酒の詩があり、読む人を飽かせない。それぞれの詩がそれぞれに読者を魅了する。しかし、ここではその一々を述べるいとまがない。






2 家系と生い立ち
I
  
Index-1 715年開元三年15歳
乙卯 玄宗 開元三年【好神仙。明堂賦約作於此年。】
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
718-001 明堂賦(卷一(一)二九)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?) 在天皇,告成岱
718-002 題竇?山(卷三○(二)一七二五 樵夫與耕者
718-003 望夫石(卷三○(二)一七○四詩文補遺) 彷彿古容儀,
718-004 對雨(卷三○(二)一七○三詩文補遺) 卷簾聊舉目,
718-005 曉晴(卷三○(二)一七○四詩文補遺) 野涼疏雨歇,
718-006 初月(卷三○(二)一七○二詩文補遺) 玉蟾離海上,
718-007 雨後望月(卷三○(二)一七○三詩文補遺) 四郊陰靄散,


Index-2 718年開元六年18歳
戊午 玄宗 開元六【在大匡山跟趙?學王霸之道?縱之術。愛好劍術,仗義任?。】
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
718-001 訪戴天山道士不遇(卷二三(二)一三五五)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》) 水聲中,桃花帶
718-002 李白.贈孟浩然 巻九 (一)593 吾愛孟夫子,
718-003 贈江油尉(卷三○(二)一七二五詩文補遺) 嵐光深院裏,傍
718-004 尋雍尊師隱居(卷二三(二)一三五○) 群峭碧摩天,逍




2-1. 家系と生い立ち

中国の詩歌史上、最も多彩な時期は唐代である。世にいう李白・杜甫・韓愈・白居易は、その唐詩の代表的詩人といっても異論はなかろう。なかんずく李白・杜甫は一段と光彩を放っており、当代のみならず、後世の人々にまで長く愛された詩人である。かつまた、後世の文学に多大の影響を与えている詩人でもある。わが国でも今目なお多くの人々が李白・杜甫を愛読している。いったい、李白の何がわれわれをひきつけるのか、何が愛されるところであるのか、その生涯をたどり、その詩を味わいながら、しばらく李白と手を取り合い、李白の心の琴線に触れつつ、歩みを共にして、その跡をたどってみよう。
 李白は、その生涯をほとんど旅人として送っている。その性格と行動は、賀知章が、かつて李白に会ったとき、嘆じて「子は滴仙人なり」、つまり、天上から流されてきた仙人である(『唐書』文芸伝・李白)といったことばにふさわしいものであった。「諦仙人」といわれるに似つかわしいかのごとく、じつは彼の出生についても漠としていて、はなはだ明らかではない。
 正史としての『旧唐書』『新唐書』の「李白伝」をはじめとして、李白の生涯に関して、もろもろの多くの資料があるが、彼の素姓は明らかではないし、李白自身も、その出生を語りたがらぬごとくであった。ただ、もろもろの資料を総合してみるとき、李白はいわゆる西域なる異民族の土地に生まれた人である。西域は、いま脚光を浴びているシルクロードのタクラマカン砂漠を含む西方の広範囲の地方を指す。ここに生まれ、程なくして中国四川省に移住してきた人であるということがほぼ推察される。したがって、こうした地に生まれたことから、李白は、はたして中国人であるのか、いやトルコ人であるのか、またイラソ人であるのかの民族人種の問題が生じてくるのは当然のことである。
 かつてこの問題については、近人の陳寅悋をはじめ三、四の学者が論じて、一時期学界を賑わしたことがあり、近くは麦朝枢が、「李白の姓氏籍貫種族の問題に関して」(『文学遺産』第六輯)なる論文を発表している。しかし、これらを総合してみても、興味ある問題ではあるが、今日ではもはや明らかにしようがない。
 なお、郭沫若が先年発表した『李白と杜甫』(人民出版社、一九七一年)では、かつて陳寅恪の発表した中国人ではないといり説(「李太白氏族の疑問」『清華学報』一〇巻二期)を否定して、李白は中国人であり、西域に移住した者の子孫で、則天武后の長安元年〈701〉に、今の中央アジアのスイーアブに、商人の子として生まれた人であるとみる。しかし、これとても推察によるところがあり、全面的に信用するわけにはゆかない。
 李白には、出生の秘密といったものがあるかどうか分からないが、まずは彼自身の口からどう語られているか聞いてみる必要があろう。しぼらく李白のことばに耳を煩けてみよう。
 李白が自身の家系について語っているのは、「張相鎬に贈る」詩である。張鏑は玄宗に従って蜀に逃れた人物であり、時に侍御史であった。「相」というのは、そのためである。
卷170_23 《贈張相鎬二首(時逃難在宿松山作。蕭士贇雲下八首偽)》李白
神器難竊弄,天狼窺紫宸。六龍遷白日,四海暗胡塵。昊穹降元宰,君子方經綸。澹然養浩氣,?起持大鈞。
秀骨象山嶽,英謀合鬼神。佐漢解鴻門,生唐為後身。擁旄秉金鉞,伐鼓乘朱輪。虎將如雷霆,總戎向東巡。
諸侯拜馬首,猛士騎鯨鱗。澤被魚鳥ス,令行草木春。聖智不失時,建功及良辰。醜虜安足紀,可貽幗與巾。
倒瀉溟海珠,盡為入幕珍。馮異獻赤伏,ケ生倏來臻。庶同昆陽舉,再睹漢儀新。昔為管將鮑,中奔?隔秦。
一生欲報主,百代思榮親。其事竟不就,哀哉難重陳。臥病宿松山,蒼茫空四鄰。風雲激壯志,枯槁驚常倫。
聞君自天來,目張氣益振。亞夫得劇孟,敵國空無人。捫虱對桓公,願得論悲辛。大塊方噫氣,何辭鼓青蘋.
斯言?不合,歸老漢江濱。
本家隴西人,先為漢邊將。功略蓋天地,名飛青雲上。苦戰竟不侯,富年頗惆悵。世傳??勇,氣激金風壯。
英烈遺厥孫,百代神猶王。十五觀奇書,作賦?相如。龍顏惠殊寵,麟閣憑天居。?途未雲已,??遭讒毀。
想像晉末時,崩騰胡塵起。衣冠陷鋒鏑,戎虜盈朝市。石勒窺神州,劉聰劫天子。撫劍夜吟嘯,雄心日千里。
誓欲斬鯨鯢,澄清洛陽水。六合灑霖雨,萬物無凋枯。我揮一杯水,自笑何區區。因人恥成事,貴欲決良圖。
滅虜不言功,飄然陟蓬壺。惟有安期?,留之滄海隅。

  詩の冒頭に、「本もと隴西に家する人、先は漢辺の将と為る。功略は天地を蓋い、名は青雲の上に飛ぶ」といっている。本籍は隴西(甘粛省天水県)の出身であるという。ここで「隴西の人」と大まかな表現をしているが、もう少し細かに害いてある記録がある。その最も古い記録は、李白が最後に身を寄せて、そこで亡くなった一族の李陽冰が書いたものである。率白は当塗県(安徴省)の令である一族李陽冰の宅に、病いのため身を寄せ、最後に詩文稿を授け、李陽冰に序を書いてもらった。この序は李陽冰の考えによって書かれたものではなく、おそらく李白の考えが多分に入っているものと思われる。それによると。
  李白、宇は太白。剛西成紀(甘粛省天水県)の人、涼の武昭王混の九世の孫。
 李白死後五十五年ほどたって害かれた茫伝正の「唐の左拾遺翰林学士李公新墓碑」も同じである。李混といえば、漢の飛将軍といわれた李広十六世の孫である。この点は、先の「本もと隋西に家する人、先は漢辺の将とがる」とまったく同じである。ただ、この本籍から次に移住した地について、『草堂集』序には、
中葉にして罪に非ずして、条支に滴居す……神竜の始め、逃れて蜀に帰る。復た李樹を指して伯陽を生む。驚姜の夕、長庚夢に入る。故に生まれて白と名づけ、太白を以って之に宇す。世に称す、太白の精、之を得たりと。
苗伝正の「新墓碑」でも、ほぼ同じく、先の「其の先は階西'成紀の人」なる記述に続いて、
絶嗣の家、譜謀を求め難し。公の孫女、箱簑中に捜し、公の亡子伯禽の手疏十数行を得たり。
紙は壊れ字は訣き、詳備する能わず。約して之を計うるに、涼の武昭王九代の孫あり。隋末多難にして、二房砕葉に蹴われ、流離散落し、隠れて姓名を易う。故に国朝より以来、属籍に編せらる。神竜の始め、潜かに広漢に還り、僑に因って郡の人と為る。

 この記述は、李陽冰の序よりやや詳しい。ただ、李陽冰のいう「条支」は、苗伝正のいう「砕葉」と呼称、が異なるが、じつは「砕葉」は「条支」国に属する地名である、郭沫若の説によると、キルギスのスイーアブであるという。なぜここに移住したかは、罹伝正によると、隋末の混乱のため、一族が逃れ隠れて、姓名も変えて住んでいたという。それが神竜の初め、ひそかに広漢に帰ってきたという。神竜の初めとは、中宗の時、705年であり、広漢とは、今も四川の成都県にあるが、その辺であろう。隋代の全国の擾乱は、史上にも名高いが、それを避けるために、ずいぶん西方の遠い所まで来たものである。しかも、四川に帰っても、父は僑(仮住まい)ということで、その土地に住み、名も客とつけたという。いかにも世間をはばかるようなやり方である。もっとも、この苗伝正の記録は、李白没後五十五年に書いた墓碑であり、すでにこのとき、李白の家は絶えて家系が分からない。やっと孫女を探し当て、その箱簑の中から、李白の子伯奥の書いた十数行の記録を見つけ出した。この記録は紙が破れ字もはっきりしなくて、詳しいことが分からないが、それによって書いたのが「涼の武昭王九代の孫云云」の記録であるという。子の伯禽が残したものとすれば、父李白からの聞き書きである。李陽冰の序にしても、この墓碑にしても、要するに李白の口から出たものである。ただ、これを見ても、砕葉に移住した様子は詳しく語られていない。やはり不思議のべールに包まれた人物である。

 ついで、漢の世に飛将軍といわれ、匈奴を恐れさせた李広をその先祖とするとしているが、これはおそらく門閥を尊ぶ当時にあっては、時の宰相に自薦するためのものであって、偽ってわが家門を尊くしたものであるとも想像される。こうした家門を偽ることは、李白のみならず、唐の王室自身さえ、鮮卑族の出身であるのを隴西の李氏の出身であると偽っているといわれるほどであるから、李白だけを責めるわけにはゆかない。
 かく李白の出生に関しては、はなはだ不明僚である以上、出生地・出生年月など、今日ではそれを明らかにしようがない。したがって、比較的信用するに足るといわれている清の王琉の年譜によってしばらく話を進めていくことにしよう。
 李白は、唐の長安(則天武后)元年〈701〉に生まれたことになっている。このとき長庚(金星、太自星)を夢みたところ生まれたので、白と名づけ、太白と字することとなったという。また、彼はのちにみずから青蓮居士、酒仙翁とも号していた。
 四歳までは、当時、西域といわれる砕葉で過ごしており、五歳のとき、はじめて父とともに四川省に移住した。時に中宗の神竜元年〈705〉である。これより二十五歳まで、この四川に住むことになる。
 したがって、李白を蜀(四川省)の人と呼ぶことはけっしてまちがってはいない。李白自身も蜀を郷里として意識していた。そして、その住まいは紫雲山のほとりであり、四川省綿陽県(当時は彰〔昌〕明県)境にあって、ここに清廉郷(青蓮郷ともいう)がある。李白が青蓮居士と号し
たのも、郷里の名をとったものである。
 四川時代の詩ははなはだ少なく、彼の生活を詳しく知る由もないが、家庭は相当に富裕であったらしい。
 彼の父は李客といった。そして後年、李白が維揚(揚州)に遊んだとき、一年足らずのりちに、落塊公子のために、三十余万の金を費やした(「安州の裴長史に上る書」)というところを見ると、相当の金を李白が持っていたと考えられる。つまり、それは彼の父に金があったことになる。とすると、父親は富裕の商人であったかもしれぬ。こうした商人は、中央アジアと長安の経済交流の盛んな情勢に乗じて、長安にやって来る。また、長安と蜀との経済交流の行なわれた当時、長安から蜀にやって米たものと思われる。李白の父はその一人であろう。
 十五歳ごろまではもっぱら教養として読書で過ごしていた。五歳のころ六甲を誦し、十歳のころ百家を虻たとみずからいっている(「安州の装長史に上る書」)。「六甲」とは十干十二支で表わす組み合わせを覚えたということであろう。また、同郷の漢の司馬相如の「子虚の賦」を暗誦もした(「秋、敬亭山に於いて、倅僅の廬山に遊ぶを送るの序」)。李白の口からは経書をとくに学んだとはいっていない、が、これは教養として当然学んだであろう。そのほかに諸子百家に及んでいることは、彼の教養を広く豊かなものにして、彼の想像力をふくらませる助けに大いになっていること、むろんである。




1-2 任侠と隠遁


Index-3 720年開元八年20歳
玄宗 開元八年【冬,禮部尚書蘇?出為益州長史,李白在途中拜謁,受到蘇?賞識】
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
720-001 大獵賦(卷一(一)六一)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?) 白以為賦者,古
720-002 上李?(卷九(一)六六○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?) 大鵬一日同風起,
720-003 冬日歸舊山(卷三○(二)一七○五詩文補遺) 未洗染塵纓,
720-004 春感(卷三○(二)一七二一詩文補遺) 茫茫南與北,
 
Index-4 721
玄宗 開元九年【遊成都。登散花樓,瞻仰司馬相如琴臺?揚雄故宅。】
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
721-001 登錦城散花樓(卷二一(二)一二一一) 日照錦城頭
721-002 白頭吟二首其一(卷四(一)三○八)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?) 錦水東北流,波
721-003 白頭吟二首其二(卷四(一)三一二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)

Index-5 724年開元十二年24歳
玄宗 開元一二年【遊峨眉山。出蜀,經三峽,至江陵,遇見道士司馬承禎。】
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
724-001 登峨眉山(卷二一(二)一二一二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?) 蜀國多仙山,峨
724-002 峨眉山月歌(卷八(一)五六六)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?) 峨眉山月半輪秋
724-003 渡荊門送別(卷一五(一)九四一)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?) 渡遠荊門外,來
724-004 秋下荊門(卷二二(二)一二八二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?) 霜落荊門江樹空
724-005 酬宇文少府見贈桃竹書筒(卷一九(二)一○九二) 桃竹書筒綺?文
724-006 「蟾蜍薄太清」詩(古風五十九首之二)(卷二(一)九四) 蟾蜍薄太清,蝕

別匡山 曉峰如畫參差碧,
724-007 大鵬遇希有鳥賦(大鵬賦)并序(卷一(一)一) 余昔于江陵


また、李白は、剣術も習っていた《與韓荊州書》。
與韓荊州書(卷二六(二)一五三九)(韓荊州に与うる書)

白聞天下談士相聚而言曰?「生不用封萬?侯,但願一識韓荊州。」何令人之景慕,
一至於此耶?豈不以周公之風,躬吐握之事。使海?豪俊,奔走而歸之。一登龍門,
則聲價十倍。所以龍蟠鳳逸之士,皆欲收名定價於君侯;君侯不以富貴而驕之,寒
賤而忽之,則三千之中有毛遂,使白得穎?而出,?其人焉。

白,隴西布衣,流落楚、漢。十五好劍術,?干諸侯;三十成文章,?抵卿相。雖
長不滿七尺,而心雄萬夫,皆王公大人,許與氣義。此疇曩心跡,安敢不盡於君侯
哉?君侯制作r神明,コ行動天地,筆參造化,學究天人。幸願開張心顏,不以長
揖見拒。必若接之以高宴,縱之以清談;請日試萬言,倚馬可待。今天下以君侯為
文章之司命,人物之權衡,一經品題,便作佳士。而今君侯何惜階前盈尺之地,不
使白揚眉吐氣,激昂青雲耶?

昔王子師為豫州,未下車,?辟荀慈明;既下車,又辟孔文舉。山濤作冀州,甄拔
三十餘人,或為侍中尚書,先代所美。而君侯亦一薦嚴協律,入為祕書郎;中陋チ
宗之、房習祖、黎マ、許瑩之徒,或以才名見知,或以清白見賞。白?觀其銜恩撫
躬,忠義奮發。白以此感激,知君侯推赤心於諸賢之腹中,所以不歸他人,而願委
身國士。?急難有用,敢效微?!且人非堯、舜,誰能盡善?白謀猷籌畫,安能自
矜?至於制作,積成卷軸,則欲塵穢視聽。恐彫蟲小技,不合大人。若賜觀芻蕘,
請給紙筆,兼之書人。然後退掃闌ャ,繕寫呈上。庶【青萍】、【結香z長價於薛、
卞之門。幸推下流,大開獎飾,惟君侯圖之!

彼は後年、しばしば剣のことを歌うが、その素養もこのころ養われたのであろう。「従兄の襄陽の少府皓に贈る」を見ると、「結髪」(二十歳)のころのことを述べて、「交わる所は尽く豪雄」といい、文人ではなく、武勇の徒と思われる。そして、「身を白刃の裏に託し、人を紅塵の中に殺す」といって、白刃を奮って血を流し人を殺すようなことは、しばしばあったといっている。これを見ると、若い時は必ずしも後年に見られるような詩人としての活躍はほとんどなかったといえよう。友人魏顧の『李翰林集』序にいう「少くして任浹、手ずから数人を刃す」というのも、真実を伝えているものであろり。要するに若いときは、いわゆる任侠の徒であった。
 剣を持つことは、がんらい文人の教養の一つではあるが、李白は、むしろ任侠の徒として剣を常に挾んでおり、後年になっても、彼の身辺に絶えずあって、単なる飾りではなくて、あふるる感慨を洩らすときの相手でもあった。「撫劍夜吟嘯,雄心日千里。」(剣を撫して夜吟嘯し、雄心日に千里」(「張相鎬に贈る」)、「知音は得易からず、剣を撫して感既を増す」《贈從弟宣州長史昭(卷十二(一)七八七)》従弟の宜州長史昭に贈る)、「長剣一杯の酒、男児方寸の心」《 贈崔侍御(卷九(一)六五一)》「崔侍御に贈る」)、「三杯剣を払い秋月に舞わし、忽然として高詠し俤泗漣る」(「玉壷吟」)などは、壮士的悲憤の感慨を剣に託して表わしている。
 この時期に、なお一つ注意すべきことは、有名な道教徒、東岐子(趙燕)とともに眠山に隠れたり、戴天山道士らの道教徒と交友のあったことである。このことは、これからのちの彼の思想形成の上に重大な影響を及ぼしている。
戴天山道士を訪ねたとき、かえなかった詩がある。これを見ると、戴天山の静寂境と剛彭の山水の美しさを色彩を交えて描写している。後年の李白の詩の一つの特色である自然の美しさとか、静けさとか、神秘さとかを歌う審美限も、じつはこの多感の青年期の蜀において大いに養われたものと思われる。
 李白は、生来、性格的にも自然の風景が好きであったかもしれないが、彼は蜀の自然の美しさにひかれて、蜀の各地をしばしば遊覧している。成都の散花楼に登っては、「錦城の散花楼に登る≒がある。これは、散花楼の朝の光の中の美しさ、蜀の川のたたずまい、過ぎ行く暮雨の風景などを歌い、いずれの景色もすべて彼の目をじゅうぶん楽しませているものであることが分かる。いったい、李白は生涯、自然の風景を楽しんでいるが、それはこうした蜀の美しい風景に触発されて感得した美的感覚がもとになっているのであろう。
 南方にそびえる峨眉山にも登っている。このときの作かどうか分からないが、あるいはのちに蜀を離れるときに作ったとも思われる「峨眉山月歌」は、あまりに有名な詩である。
《峨眉山月歌》 卷八(一)五六六)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》

峨眉山月半輪秋,影入平羌江水流

夜發清溪向三峽,思君不見下渝州。



 峨眉山は成都の西南およそ一〇〇キロメートル、眠江を下ってゆくと楽山に着く。その西にそびえ、その北に青衣江(平莞江)が流れ、楽山で眠江と合流する。楽山県を下ると鍵為県があり、これが清渓駅である。李白はこの秋の半輪の月夜、平莞江に月影の美しく映るのを眺めつつ、清渓に着いたが、その夜この清渓を発って三峡方面へと向かう旅に出ようとしている。三峡は長江のこれからかなり下った所である。それに向かいつつ、渝州(重慶の一帯)へと下って行くというのである。
 この詩、おそらく四川を出て湖北に向かう旅の途中の詩で、王埼によれば、蜀を出る二十五歳のときの作らしい。ここでいう「君」とはむろん月のことで、五つ地名を盛りこんであるとして、その巧みさが称せられているが、地理的関係を知らぬとじゅうぶん理解できぬし、少々無理もあるようである。
 美しい蜀の自然は、李白の審美眼を養って発達させ、彼の心想を豊かにした。また、それは生涯、彼の心に強く焼きついて、懐かしいふるさとの自然として、後年しばしば回想されている。
 開元十三年〈七二五〉、二十五歳のとき、美しき自然に囲まれた、また思い出多い故郷の四川をあとにして、第一回の遍歴の旅に出ることになった。

贈從弟宣州長史昭(卷十二(一)七八七)全唐詩 卷171_7

淮南望江南,千里碧山對。
我行倦過之,半落青天外。
宗英佐雄郡,水陸相控帶。
長川豁中流,千里瀉?會。
  
君心亦如此,包納無小大。
搖筆起風霜,推誠結仁愛。
  
訟庭垂桃李,賓館羅軒蓋。
何意蒼梧雲,飄然忽相會。
  
才將聖不偶,命與時?背。
獨立山海間,空老聖明代。
  
知音不易得,撫劍搖エ慨。
當結九萬期,中途莫先退。








  



贈崔侍御(卷九(一)六五一)卷168_34

長劍一杯酒,男兒方寸心。
洛陽因劇孟,托宿話胸襟。

  
但仰山嶽秀,不知江海深。
長安複攜手,再顧重千金。

  
君乃?軒佐,予叨翰墨林。
高風摧秀木,?彈落驚禽。
  
不取回舟興,而來命駕尋。
扶搖應借力,桃李願成陰。

  
笑吐張儀舌,愁為莊?吟。
誰憐明月夜,腸斷聽秋砧。









峨眉山月歌(卷八(一)五六六)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》卷167_5

峨眉山月半輪秋,影入平羌江水流。

夜發清溪向三峽,思君不見下渝州。

 
  
  

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