李白詩 李白の人生と詩


       李白の人生と詩

3 蜀から旅立ち、十六年の「飄逸」の旅


3 蜀、成都から旅立ち、十六年にわたる「飄逸」の旅

   【725年開元13年25歳〜】

Index-6 725年開元十三年25歳
乙丑 玄宗【遊洞庭,南窮蒼梧。夏,友人?指南卒於洞庭。初登廬山。至金陵。】
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
725-001 望廬山瀑布二首其一(卷二一(二)一二三八) 西登香爐峰,南
725-002 望廬山瀑布二首其二(卷二一(二)頁一二四一) 日照香爐生紫煙
725-003 望天門山(卷二一(二)一二五五) 天門中斷楚江開
725-004 金陵城西樓月下吟(卷七(一)五二○) 金陵夜寂涼風發
725-005 楊叛兒(卷四(一)二八七) 君歌楊叛兒,妾
725-006 長干行二首其一(卷四(一)三二六) 妾髮初覆額,折
725-007 長干行二首其二(卷四(一)三二九) 憶妾深閨裏,煙
725-008 巴女詞(卷二五(二)一五○二) 巴水急如箭,巴
725-009 東山吟(卷七(一)五二一) 攜妓東土山,悵
725-010 荊州歌(卷四(一)三○二) 白帝城邊足風波


十六年にわたる「飄逸」の旅

 李白が家を離れて行遊することは蜀においてもしばしばであったがい放郷なる蜀を離れて、あの広い中国を遍薦するのは、このたびがはじめてである。
 第一回の遍歴期は、およそ十六年間の長いあいだ続く。西は江陵(湖北省)より始まり、南は蒼梧(広西省蒼梧)、東は?中(会稽)、北は?州(太原)に至る広い範囲である。湖北・湖南・江西・安徽・浙江・江南・山西・山東の各省にわたるもので、中国の東半分のおもな場所に、彼の足跡を残したことになる。この中で最も長く逗留していたのは湖北省の安陸である。
 なぜこんな広範囲の場所を長いあいだ歩いたかは、じつはよく分からない。親友の杜甫が知人を頼り食を求めて浪々と旅をしたのは、その必要があったからである。李白は何の必要があったのか、かつて『光明日報』の「文学遺産」に、麦朝枢が、李白の足跡をたどり、その逗留した所は金・銀・銅の産地に近いところから、あるいはその売買に関係して生活資金を得たのではないかという説を発表したことがあるが、当時、人々を驚かせたものである。
 なぜこうした遍歴をしたのか、これまた李白自身の詩文から、その理由をみてみよう。この遍歴の途に上った理由についてはヽ《上安州裴長史書(卷二六(二)一五四四)》安州の裴長史に上る書」によると、

上安州裴長史書((卷二六(二)一五四四)

白本家金陵,世為右姓。遭沮渠蒙遜之難,奔流鹹秦,因官寓家。少長江漢,
五?誦六甲,十?觀百家,軒轅以來,頗得聞矣。常經籍詩書,制作不倦,
迄於今三十春矣。以為士生則桑弧蓬矢,射乎?四方,故知大丈夫必有四方
之誌。乃仗劍去國,辭親遠遊,南窮蒼梧,東?溟海。
白は利もと金陵に家し、世よ右姓たり。沮渠蒙遜の難に遭い、咸秦に奔流す。官に因って寓家し、少くして江漢に長ず。五歳にして六甲を誦し、十歳にして百家を観る。軒轅以来頗や聞くを得たり。常に経籍の書を横たえ、制作して倦まず、今に迄るまで三十春なり。以為えらく士生まるれば桑弧と蓬矢、四方に射ると。故に大丈夫は必ず四方の志有りと知る。
  乃ち剣に仗って国を去り、親を辞して遠く遊ぶ。南のかた蒼梧を窮め、東のかた瞑海を渉る。

といっている。彼の抱く「四方の志」とは定かではないが、おそらくしかるべき官途に就いて大いに経世の才を発揮して、天下の政治に参画したいという自信に満ちたものではなかったろうか。時は開元の半ば、唐の最も隆盛な時代であり、玄宗もまたよく天下の士を選んで政治に参与することのできるようにさせた。前後の時代と比較して政治の最も充実した時代である。一般の青年たちは、前途を夢みつつ希望に胸をふくらませた時代であり、李白もまた希望に胸をふくらませて旅立った一人の青年であった。
 彼の遍歴のもう一つの理由は、当時流行の道家思想に影響されて、拘束されない生活に身をゆだね、自然のままを愛し、大道を求めるためであって、諸国遍歴こモ、その日的をかなえるものであると考えたであろう。李白は、希望に燃えて、「剣に伏って国を去り、親を辞して遠く遊ぶ」べく旅立ったのである。劉全白の「唐の故の翰林学士李君の硝記」にいっているよりに、彼の心中期するところは、当時一般の人々が求める進士の試験に及第して官吏となることではなかった。いたずらに「小官を求めず」に、一挙に大臣の位に就くことこそ目標であると夢みていたようである。
上安州裴長史書((卷二六(二)一五四四)

白聞:天不言而四時行,地不語而百物生。白人焉,非天地,安得不言而知乎?
敢剖心析肝,論舉身之事,便當談笑以明其心。而粗陳其大綱,一快憤懣,惟君侯察焉。白本家金陵,世為右姓。
遭沮渠蒙遜之難,奔流鹹秦,因官寓家。少長江漢,五?誦六甲,十?觀百家,軒轅以來,頗得聞矣。常經籍詩
書,制作不倦,迄於今三十春矣。以為士生則桑弧蓬矢,射乎?四方,故知大丈夫必有四方之誌。乃仗劍去國,辭
親遠遊,南窮蒼梧,東?溟海。
見?人相如大誇雲夢之事,雲楚有七澤,遂來觀焉。而許相公家見招,妻以孫女,便
憩跡於此,至移三霜焉。

曩昔東遊維揚,不逾一年,散金三十餘萬有落魄公子,悉皆濟之。此則是白之輕財好施也。又昔與蜀中友人?指南
同遊於楚,指南死於洞庭之上,白?服慟哭,若喪天倫。炎月伏屍,泣盡而繼之以血,行路聞者,悉皆傷心,猛虎
前臨,堅守不動。遂權殯於湖側,便之金陵。數年來觀,筋骨尚在。白雪泣持刃,躬申洗削,裹骨徒?,負之而
趨。寢興攜持,無輟身手,遂丐貸營葬於鄂城之東。故?路遙,魂魄無主,禮以遷?,式昭朋情。此則是白存交重義
也。又昔與逸人東岩子隱於岷山之陽,白?居數年,不跡城市。養奇禽千計,呼皆就掌取食,了無驚猜。廣漢太守
聞而異之,詣廬親睹,因舉二人以有道,並不起。此則白養高忘機、不屈之跡也。又前禮部尚書蘇公出為益州長
史,白於路中投刺,待以布衣之禮。因謂群寮曰:「此子天才英麗,下筆不休,雖風力未成,且見專車之骨。若廣
之以學,可以相如比肩也。」

四海明識,且知此談。前此郡都督馬公,朝野豪?,一見盡禮,許為奇才。因謂長史李京之曰:「諸人之文,猶山
無煙霞,春無草樹。李白之文,清雄奔放,名章俊語,絡繹間起,光明洞徹,句句動人。」
此則故交元丹,親接斯
議。若蘇、馬二公愚人也,複何足陳??賢者也,白有可尚。夫唐虞之際,於斯為盛,有婦人焉,九人而已。是知
才難,不可多得。白野人也,頗工於文,惟君侯顧之,無按劍也。伏惟君侯貴而且賢,鷹揚虎視,齒若編貝,膚如
凝脂,昭昭乎若玉山上行,朗然映人也。而高義重諾,名飛天京,四方諸侯,聞風暗許。

倚劍慷慨,氣幹虹,月費千金,日宴群客。出躍駿馬,入羅紅顏,所在之處,賓朋成市,故詩人歌曰:「賓朋何喧
喧?日夜裴公門。願得裴公之一言,不須驅馬埒華軒。」白不知君侯何以得此聲於天壤之間?豈不由重諾好賢,謙
以下士得也?

而?節改操,棲情翰林,天才超然,度越作者。屈佐?國,時惟清哉!?威雄雄,下慴群物。白竊慕高義,已經十
年,雲山間之,造謁無路。今也運會,得趨末塵,承顏接辭,八九度矣。常欲一雪心跡,崎嶇未便。何圖謗詈忽
生,?口?毀,將欲投杼,下客震於嚴威。然自明無辜,何憂悔吝?孔子曰:「畏天命,畏大人,畏聖人之言。」過
此三者,鬼神不害。若使事得其實,罪當其身,則將浴蘭沐芳,自屏於烹鮮之地,惟君侯死生。不然,投山竄海,
轉死溝壑,豈能明目張膽、托書自陳耶?昔王東海問犯夜者曰:「何所從來?」答曰:「從師受學,不覺日?。」

王曰:「豈可鞭撻ィ越,以立威名?」想君侯通人,必不爾也。願君侯惠以大遇,洞開心顏,終乎前恩,再辱
英?。白必能使精誠動天,長虹貫日,直度易水,不以為寒。若赫然作威,加以大怒不許門下,逐之長途,白即膝
行於前,再拜而去,西入秦海,一觀國風,永辭君侯,?鵠舉矣。何王公大人之門不可以彈長劍乎?





3-2 安陸で結婚、失意と結婚  【726年開元14年26歳】

Index-7 726年開元十四年26歳
丙寅 玄宗【春,至廣陵。又東南遊蘇州?杭州?越州?臺州,東?溟海。然後回舟北上,復至揚州。散金三十萬。臥病。】
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
726-001 金陵酒肆留別(卷十五(一)九二八) 風吹(兩宋本、
726-002 渡荊門送別(卷一五(一)九四一) 渡遠荊門外,來
726-003 ?鶴樓送孟浩然之廣陵(卷一五(一)九三五) 故人西辭?鶴樓
726-004 贈汪倫二首其一(卷十二(一)八二○) 李白乘舟將欲行
726-005 贈汪倫二首   其二(頁五一六) 海潮南去過
726-006 夜下征虜亭(卷二二(二)一二六五) 船下廣陵去,月
726-007 蘇臺覽古(卷二二(二)一二九一) 舊苑荒臺楊柳新
726-008 烏棲曲(卷三(一)二二○) 姑蘇臺上烏棲時
726-009 淮南臥病書懷寄蜀中趙?君?(卷一三(一)八二五) 越王句踐破?歸
726-010 越中覽古(卷二二(二)一二九二) ?會一浮雲
726-011 月夜金陵懷古(卷三○(二)一六九六詩文補遺) 蒼蒼金陵月,空
726-012 示金陵子(卷二五(二)一五○○) 金陵城東誰家子
726-013 出妓金陵子呈盧六四首其一(卷二五(二)一五○一) 安石東山三十春
726-014 出妓金陵子呈盧六四首其二(卷二五(二)一五○一) 南國新豐酒,東
726-015 出妓金陵子呈盧六四首其三(卷二五(二)一五○二) 東道煙霞主,西
726-016 出妓金陵子呈盧六四首其四(卷二五(二)一五○二) 小妓金陵歌楚聲
726-017 白毫子歌(卷七(一)四九九) 淮南小山白毫子
726-018 江上寄巴東故人(卷一四(一)八七八) 漢水波浪遠;巫
726-019 別東林寺僧(卷一五(一)九三○) 東林送客處,月
726-020 金陵白楊十字巷(卷二二(二)一三一○) 白楊十字巷,北
726-021 金陵新亭(卷三○(二)一六九七詩文補遺) 金陵風景好,豪
726-022 洗?亭(卷二五(二)一四四二) 白道向姑熟,洪
726-023 秋日登揚州西靈塔(卷二一(二)一二二四) 寶塔?蒼蒼,登
726-024 秋夜板橋浦汎月獨酌懷謝?(卷二二(二)一三○二) 天上何所有?迢
726-025 寄弄月溪?山人(卷一三(一)八二七) 嘗聞?コ公,家
726-026 望廬山五老峰(卷二一(二)一二四二) 廬山東南五老峰
726-027 登瓦官閣(卷二一(二)一二二九) 晨登瓦官閣,極
726-028 鼓吹入朝曲(卷五(一)三九四) 金陵控海浦,
726-029 廣陵贈別(卷一五(一)九一九) 玉瓶沽美酒,數
726-030 江詞六首其一(卷七(一)頁五一五) 人道江好,儂
726-031 江詞六首其二(卷七(一)頁五一六) 海潮南去過尋陽
726-032 江詞六首其三(卷七(一)頁五一七) 江西望阻西秦
726-033 江詞六首其四(卷七(一)頁五一八 海神來過惡風迴
726-034 江詞六首其五(卷七(一)頁五一九) 江館前津吏迎
726-035 江詞六首其六(卷七(一)頁五一九) 月暈天風霧不開
726-036 題金陵王處士水亭(卷二五(二)一四四四) 王子?玄言,賢


    早發白帝城(卷二二(二)一二八○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)は、後年、夜郎に流され恩赦にあって引き返すときの作であるが、三峡を下る様子がよくわかるので見てみる。
卷181_13 《早發白帝城(一作白帝下江陵)》李白

朝辭白帝彩雲間,千里江陵一日
還。

兩岸猿聲啼不盡,輕舟已過萬重山。
朝に辞す白帝の彩雲の間を、千里の江陵一日にして還る。
両岸の猿声啼いて尽きざるうちに、軽舟は已に過ぐ万重の山を。


 李白は岷江から長江を下ってゆく。さらに下ると奉節県に白帝城が見える。これから三峡の険を経て、湖北における大都市の一つ江陵に着く。このときの作とする説もあるが、恐らく後年のものであろう、人口に謄灸されている「早に白帝城を発つ」がある。
「朝早く朝日に色どられた白帝城のあたりを出発する」と、三峡のせばまった急流を矢のように走り、この辺、猿声の悲しい声がすると古来から詩に歌おれているが、「その猿声の耳に残っているうちに、両岸の山々の間を過ぎて、はや千里のかなたの江陵に着いた」という。軽快のリズムを持つ詩である。彼の前途に対する希望に燃えた気待ちを象徴するかのような詩でもある。もっともこの詩の「還」を、あくまで引き返す意だとして、この作は後年、夜郎に流され恩赦にあって引き返すときの作とする説もある。
 ときに李白は、「小官を求めず、当世の務めを以て自ら負む」という気概を持ちつつ、科挙の試験を経て官吏となる平凡な通常の道を選ばずに、天下を治める才能のあることを頼み、一挙に政治の中枢に訟画しようという大望を抱いていち耐爪が長史の鮒繋ぷ与えた書にヽ「三十にして文章を成し、卿相に歴抵らん。長七尺に満たずとも、心は万夫より雄れたり」とはこのときの希望に燃えて、末は宰相、大臣かと夢みる心意気を示したものである。そして、「己れを屈げず、人に干めない」自信に清ちた態度を示している。
李白は長江を下り、やがて揚州に姿を現わす。ここは今の南京の下流に当たり、唐代では殷盛を極めた商粟都市であり、重要な港でもあった。わが遺唐使もここに着いて上陸し、以後、運河をつたい北上し、やがて陸路長安の都に入ったものである。
 一年たらずのあいだに、三十余万金という大金を【落魄の公子】を助けるために与えるという任侠の行為をしたり、また洞庭湖の辺りでは四川時代の親友呉指南の死にあって慟哭し、またその埋葬もするという、朋友に対する友情の厚さを見せている。また、益州の刺史の蘇頚や、安陸郡の都督の馬公、その他の地方官吏と交わっているが、彼の傲慢奔放ともいうべき性格は、必ずしも当時の人々に認められるところとはならなかった。


Index-8 727年開元十五年27歳 
丁卯 玄宗 【沿長江西上,觀雲夢,寓安州北壽山。北遊汝海?襄州,結識孟浩然。回安陸,沖撞李長史車馬。與元丹丘一起受馬都督和李長史接見。與故相許圉師的孫女結婚。】
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
727-001 贈?(卷二五(二)一四九五) 三百六十日,日
727-002 代壽山答孟少府移文書(卷二六(二)一五二一) 淮南小壽山謹使
727-003 上安州李長史書(卷二六(二)一五二七) 白,?崎?
727-004 靜夜思(卷六(一)四四三) 床前看月光,疑
727-005 山中問答(卷十九(二)一○九五) 問余何意棲碧山
727-006 ?山懷古(卷二二(二)一二九六) 訪古登?首,憑
727-007 南軒松(卷二四(二)一四一九) 南軒有孤松,


彼は意のごとくならない焦燥にかられ、やるせない気持ちをもって湖北省の安陸にやって来た。安陸は、この地方の中心地であり、かつては陶淵明の曾祖父に当たる晋の名将陶侃の築いた故城もあった所である。このときの気持ちを彼自身、「白の孤剣誰にか托せん。悲歌して自から憐れむ。栖惶しみに迫られ、席は媛むるに暇あらず。絶かなる国に寄せて何をか仰がん。南に徒るも従るものなく、北に游ぶも路を失う」(安州の李長史に上る書)といっている。
 ここにはだれも頼るものなく、各地を放浪して歩き、「悲歌」しながらみずからを慰めている李白の孤独の姿が目に見えるようである。かかる失意の気持ちで安陸に来て、かつての宰相であった許困師の孫娘と縁あって結婚することとなった。彼の二十六、七歳のころであろう。
 彼の妻の詳しいことは分からぬが、比較的才情のあるおとなしい人のようだった。このころの作であろうか、妻に贈った詩に 《贈内》がある。
贈内(卷二五(二)一四九五)

贈内
三百六十日,日日醉如泥。
雖為李白婦,何異太常妻。
内に贈る
三百六十日、日々酔うて泥の如し。
李白の婦と為ると雖ども、何ぞ太常の妻に異ならんや。
  
後漢の周沢は、太常の役となった。これは宗廟の祭りをつかさどる役である。彼は毎日みそぎをして祭りをつかさどったが、あるとき病気になってしまった。妻が見舞いに訪ねると、物忌みが犯されてしまったと怒ったという。当時の人は、世の中でいちばんつまらぬものは太常の妻であって、一年のうち三五九日は、みそぎをして神に仕えているが、神に仕えない一日は、酔いつぶれていて泥のようだといった。「泥」は泥虫といって水があれば活きるし、なければ泥のようになってしまう。この詩はむろん妻に対してからかった詩であろう。一杯飲んでいるとき、すねている妻をからかって、その妻を肴にして飲んでいる李白が想像きれる。しかし、その背後には、妻を思いやる愛情が感ゼられる。この許氏の妻は、開元二十八年ごろ、李白の四十歳ごろに亡くなっていると思われるが、確かなことは分からない。
 彼は安陸を中心に約十年間各地を遍歴し、安陸では比較的安定した生活を送ったらしい。おそらく結婚したためであろう。後年の彼のことばによれば、ここにおける生活は、希望がかなえられた生活ではなく、「栖隠」であり、意に満たない「聡陀」の生活であったといっているが、それでも十年の長きにわたってこの地方に滞在していたのは、やはり落ち着いておられる環境にあったのであろう。
 安陸を中心に各地を遊覧して歩くそのころは、李白自身は意に満たない生活であったかもしれないが、詩の面においては相当の力量を持つようになってきて、彼の詩がようやく円熟してきた時代のごとく思われる。前の郡の都督、馬公(某)たちが李白の詩文をほめて、「李白の文は、清雄にして奔放なり。名章や俊語は、絡輝き間がわる起こる。光明は洞徹き、句句は人を動かす」はじめての旅立ち

前此郡都督馬公,朝野豪?,一見盡
禮,許為奇才。因謂長史李京之曰:
「諸人之文,猶山無煙霞,春無草
樹。李白之文,清雄奔放,名章俊
語,絡繹間起,光明洞徹,句句動
人。

」(前に此の郡都督の馬公は,朝野豪?,一見て禮を盡し,奇才を為すを許す。因謂長史李京之曰:「諸人之文,猶山無煙霞,春無草樹。李白の文は,清雄にして奔放なり,名章や俊語は,絡繹して間起し,光明は洞徹して,句句人を動かす。」) (「安州の裴長史に上る書」)といって、「奇才」であるとして、長官に推薦したという。李白が記録したものであるから、必ずしもそのとおりではないにしても、とにかく、詩は人から認められるほどに巧みになっていたことは、まちがいない。ここを中心に各地を遍歴し、珍しい風景に接して、新しい人生経験をしたことが、彼の詩風を成熟させたものといえよう。
じようようか

Index-9 728年開元十六年28歳
戊辰 玄宗【春至江夏,改葬?指南。暮春,送孟浩然之廣。回安陸,寓居白兆山。】
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
728-001 ?鶴樓送孟浩然之廣陵(卷一五(一)九三五) 故人西辭?鶴樓
728-002 送蔡山人(卷一七(二)一○三九) 我本不棄世,世
728-003 早春於江夏送蔡十還家雲夢序(卷二七(二)一五六九) 吾觀蔡侯奇人
728-004 送戴十五歸衡岳序(卷二七(二)一五七三) 白上探玄古
728-005 「碧荷生幽泉」詩(古風五十九首之二十六) 碧荷生幽泉,朝
728-006 「燕趙有秀色」古風,五十九首之二十七 燕趙有秀色,
728-007 「青春流驚湍」古風,五十九首之五十二 青春流驚湍,
728-008 秋思(卷六(一)四四七) 春陽如昨日,
728-009 贈僧行融(卷十二(一)八○七) 梁有湯惠休,常
728-010 感興八首其六(卷二四(二)一三八八) 西國有美女,結









3-2山簡、酒‐−襄陽歌


Index-10 729年開元十七年29歳 
己巳 玄宗
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
729-001 安州般若寺水閣納涼喜遇薛員外乂(卷二三(二)一三二八) ?然金園賞,遠
729-002 729-002  安州應城玉女湯作【案:《荊州記》云:「(常)有玉女乘
車投此泉。」】(卷二二(二)一二六三)
神女歿幽境,
729-003 秋夜於安府送孟贊府還都序(卷二七(二)一五八八) 夫士有飾危
729-004 長相思(卷六(一)四六一) 日色欲盡花含
729-005 擬古十二首其十一(卷二四(二)一三七八三)(此首文字與卷二五
(二)一四八六
?江弄秋水,愛
729-006 感興八首其八【案:集本八首,?二首與古風同,前已附註,不重?。】
(卷二四(二)一三九○)
嘉穀隱豐草,
729-007



山簡、酒‐−襄陽歌

27歳から、35歳頃までの李白の生活は、つぃぎの歌に良くあらわされている。安陸より西二〇〇キロメートルにある風光明媚な水の街、襄陽を訪れたとき作った詩であろう。734年開元22年、李白34歳の作、《襄陽歌(卷七(一)四七三)、襄陽曲》がある。詩と酒を生涯の好き友とした李白の処世態度・人生観がすでにここに現われていることは注目すべきである。「歌」とか「行」という命題をつけたいわゆる歌行体というものが、唐代に流行した。もとはリズムをもって歌われた歌謡調であったが、このころは必ずしも歌われたものではない。しかし、律詩・絶句と異なり、自由な伸び伸びした調子を持っている。このときの李白の気持ちを表わすに最もふさわしい調子であったのであろう。彼は歌う。山簡についての詩も多くある。
山簡について詠っている詩
卷164_12 《襄陽曲四首之二》李白 山公醉酒時,酩酊高陽下。頭上白接z5,倒著還騎馬。
卷164_12 《襄陽曲四首之》李白 且醉習家池,莫看墮?碑。山公欲上馬,笑殺襄陽兒。


   年 :734年開元二十二年34歳

卷別:    卷一六四              文體:    樂府


作地點:              襄州(山南東道 / 襄州 / 襄州)


及地點:              襄州 (山南東道 襄州 襄州) 別名:襄陽        


高陽池 (山南東道 襄州 襄州)        


襄陽曲,四首之一:(襄陽地方の名所古蹟について述べ一首一か所を詠出し、第一首は襄陽の風景を慨叙したもの。

襄陽行樂處,歌舞白銅?。
江城回?水,花月使人迷。
(襄陽曲四首其の一)
襄陽 行楽の処、歌舞 白銅蹄。
江城 ?水を回し、花月 人をして迷わせる。
(襄陽地方の名所古蹟について述べ一首一か所を詠出し、第一首は襄陽の風景を慨叙したもの。)
襄陽は、風土もよく、山水も明媚であってもっともたのしい行楽の場所である。士女、庶民は、古いわらべ歌の「白銅蹄」を歌ったり踊ったり伝誦している。
漢水の緑に澄んだ大江のながれは江城をめぐるのを?山はのぞむ、この街のなまめかしい花と月とは、人の心をまよわせるばかりである。
襄陽曲,四首之二:(襄陽地方の名所古蹟について述べ一首一か所を詠出し、第二首は襄陽の高陽池に遊んだ西晋の山簡について詠う)

襄陽曲四首 其二
山公醉酒時、酩酊高陽下。
頭上白接籬、倒著還騎馬。
(襄陽曲四首 其の二)
山公 酒に酔うの時、酩酊す 高陽の下。
頭上の 白接籬、倒しまに着けて還た馬に騎す。
(襄陽地方の名所古蹟について述べ一首一か所を詠出し、第二首は襄陽の高陽池に遊んだ西晋の山簡について詠う)
むかし、山簡先生はいつもお酒に酔っている、野酒酩酊して、かならず高陽池のほとりでおりていた。
その揚げ句には、あたまの上には、白い帽子。それを前後逆さに取り違えてかぶりながら、それも知らずに馬に跨り、平気で乗り回していた。

襄陽曲,四首之三:(襄陽地方の名所古蹟について述べ一首一か所を詠出し、第三首は襄陽の見山の上に立てられた晋のこの地の太守であった羊?の記念碑「墮?碑」について詠う)

襄陽曲,四首之三
?山臨漢江,水麹ケ如雪。
上有墮?碑,青苔久磨滅。
(襄陽曲,四首の三)
見山 漢江に臨み、水は緑に 抄は雪の如し。
上に堕涙の碑有り、青苔に 久しく磨滅す。
(襄陽地方の名所古蹟について述べ一首一か所を詠出し、第三首は襄陽の見山の上に立てられた晋のこの地の太守であった羊?の記念碑「墮涙碑」について詠う)
見山は漢江に臨んでそびえたつ、漢江のながれる水はいつも清く澄み、両川辺の砂は雪のような白さだ。
むかし、晋の羊?は、この地の太守になって、民の恩恵を施したことにより、その後、民はその遺徳を思い、その記念として?山山上には「墮涙碑」を建てた、しかし、歳月はしきりに過ぎ、その碑はいまや磨滅し、 青苔におおわれたままうもれて見えない。


襄陽曲,四首之四:(襄陽地方の名所古蹟について述べ一首一か所を詠出し、第四首は第二首に続いて襄陽の高陽池に遊んだ西晋の山簡について詠う)

襄陽曲,四首之四
且醉習家池,莫看墮?碑。
山公欲上馬,笑殺襄陽兒。
(襄陽曲,四首之四)
且らく酔わん 習家の池、堕涙の碑を看る莫れ。
山公 馬に上らんと欲すれば、笑殺す 嚢陽の児。
(襄陽地方の名所古蹟について述べ一首一か所を詠出し、第四首は第二首に続いて襄陽の高陽池に遊んだ西晋の山簡について詠う)
習家の池上は花木の勝があって、まことに宜しい所であるから、そこを散策し酔うのが善い。?山の上に建つ墮?碑は羊?の遺跡であり、これを見ると懐古の念を催すから、まず、見ることである。そして、墮?碑をみてからは習家池で酔いつぶれよう。
むかし、山公先生は習家の池上に酔うて、また酔うて、それでも馬に乗ろうとするときに、よほどおかしい所作をするというので、襄陽の子供たちは、これを嘲り笑い転げて歌い囃したというが、そんな真似をして飲んで酔うのが善かろう。

大堤曲:(大堤の街の妓女の目線、心持になって構想したもの)

大堤曲
漢水臨襄陽,花開大堤暖。
佳期大堤下,?向南雲滿。
春風無復情,吹我夢魂散。
不見眼中人,天長音信斷。
(大堤曲)
漢水は 嚢陽に臨み、花開いて 大堤暖かなり。
佳期 大堤の下【もと】、涙は南雲に向って満つ。
春風 復た 情 無く、我が 夢魂を吹いて散ず
眼中の人を見えず、天 長くして 音信 断ゆ。
(大堤の街の妓女の目線、心持になって構想したもの)
漢江の水は、襄陽城が臨み、城外を圍繞する大?のまちの上には、花が満開、時候も暖かである。
春になったらと誰もが逢瀬の約束をして南の方に出かけていった、この大堤の下で逢うことを約束したのに来てくれない、南雲をみあげると、涙が満ちてあふれだす。
春風は和らぎ暖かであるから、恩恵の深い風も、わたしにとってはまことにつれなくなさけないもので、慕情の夢を冷ましてしまう。
恋しいあの人の面影ばかりが目の中に残っているが、それがなかなか見えない。天は、遠くして、空のかなた、音信は断絶、さていよいよわが心は傷ましく増すばかり。
襄陽歌:(襄陽の名所旧跡について興をよせ,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもある。)

襄陽歌
落日欲沒?山西,倒著接離花下迷。
襄陽小兒齊拍手,?街爭唱白銅?。
傍人借問笑何事,笑殺山翁醉似泥。

??杓,鸚鵡杯,百年三萬六千日,一日須
傾三百杯。
遙看漢水鴨頭香C恰似葡萄初??。
此江若變作春酒,壘?便築糟丘臺。

千金駿馬換小妾,笑坐雕鞍歌落梅。
車傍側掛一壺酒,鳳笙龍管行相催。
咸陽市中歎?犬,何如月下傾金罍。
君不見晉朝羊公一片石,龜頭?落生莓
苔。

?亦不能為之墮,心亦不能為之哀。
清風朗月不用一錢買,玉山自倒非人推。
舒州杓,力士鐺,李白與爾同死生。
襄王雲雨今安在,江水東流猿夜聲。
(襄陽の歌)
落日 沒せむと欲す  ?山【けんざん】の西,倒【さかし】まに 接籬を著けて 花下に迷う。
襄陽の小兒 齊しく手を拍ち,街を?【さえぎ】って 爭い唱う「白銅?」。
傍人借問す 何事をか笑ふと,笑殺す 山翁の醉いて泥の似たるを。』
??【ろじ】の杓【しゃく】、鸚鵡の杯、百年 三萬 六千日,一日 須【すべか】らく傾くべし  三百杯。
遙かに看る 漢水 鴨頭の香C恰【あた】かも似たり 葡萄の初めて??【はつばい】するに。
此の江 若し 變じて 春酒と作【な】らば,壘麹 便ち 築かん 糟丘臺。』
千金の駿馬 小妾と換へ,笑ひて 雕鞍に坐して 「落梅」を歌う。
車旁 側に挂【か】く 一壺の酒,鳳笙 龍管 行【ゆくゆ】く 相い催【うなが】す。
咸陽の市中に 黄犬を歎くは,なんぞ 如【し】かん 月下に金罍【きんらい】を傾(かたむ)くるに。
君 見ずや 晉朝の羊公 一片の石,龜頭 剥落して 莓苔【ばいたい】生ず。』
涙も亦た 之れが爲に墮つる能わず,心も亦た 之れが爲に哀しむ能はず。
清風 朗月 一錢の買うを 用いず,玉山 自ら倒る 人の推すに非ず。
舒州の杓,力士の鐺【そう】。李白 爾と 死生を 同じくせん。
襄王の雲雨  今 安にか在る,江水は 東流して 猿は夜に聲く。』
一年三百六十日,一生百年,毎日酒を飲んで暮らせたらという李白の目には,河川は酒に見え,丘陵は麹糟に映った。時空を超越させてくれるのは酒だけであり、李白はこの時“仙”になったのであり,「杓」と「鐺」が生涯の友であるという。「杓」は酒を酌む器,「錯」は酒を温める鼎。この作は酒を一生の友とすることを宣言した作としてたしかに劉伶の「酒徳頌」に匹敵する。

李白はまず山簡の飲酒を範として掲げた上で高らかに唱い出し,その上で以下には自分がいかに山簡のように酒を愛するかを詠んでいる。この詩は南宋・祝穆『方興勝覧』三二「襄州府」名官の「山簡」の条に唯一引用され, しかも全文が引用されているように,酒を頌える歌であると同時に山簡の賛歌でもあるといえる。では,山簡はといえば,夕暮れまで酒を飲み,花間に迷い,街の子供たちに通せん坊されて歌い囃されるという,滑稽な泥酔者として捉えられている。

「見山の詩」張九齢 登襄陽見山 李白「見山懐古」関連Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -306
見山の詩] 陳子昂 見山懷古 李白「見山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -307
輿黄侍御北津泛舟 孟浩然 李白「見山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -309
見山送張去非遊巴東(見山亭送朱大)孟浩然 李白「見山懐古」関連Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 350-310
見山送蕭員外之荊州 孟浩然 李白「見山懐古」関連 K見連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 350 -313
孟浩然 登鹿門山懐古 #1 李白「?山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -319
孟浩然 仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊 #1 李白「見山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩集350-320
孟浩然 見暮歸故園(歳暮帰南山)李白「見山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 集350 -323









卷167_1 《秋浦歌十七首》李白 醉上山公馬,寒歌ィ戚牛。空吟白石爛,?滿K貂裘。



卷169_3 《憶襄陽舊游,贈馬少府巨》李白 昔為大堤客,曾上山公樓。開窗碧嶂滿,拂鏡滄江流。



卷170_17 《江夏贈韋南陵冰》李白 山公醉後能騎馬,別是風流賢主人。頭陀雲月多僧氣,



卷174_12 《留別廣陵諸公(一作留別邯鄲故人)》李白 乘興忽複起,棹歌溪中船。臨醉謝葛強,山公欲倒鞭。



卷175_3 《送王屋山人魏萬還王屋》李白 吾友揚子雲,弦歌播清芬。雖為江寧宰,好與山公群。



卷175_16 《魯郡堯祠送竇明府薄華還西京(時久病初起作)》 高陽小飲真瑣瑣,山公酩酊何如我。竹林七子去道?,



卷181_28 《?山懷古》李白 弄珠見遊女,醉酒懷山公。感歎發秋興,長松鳴夜風。
  




166_1 《襄陽歌》李白
  落日欲沒?山西,倒著接籬花下迷。襄陽小兒齊拍手,
  ?街爭唱白銅?.傍人借問笑何事,笑殺山翁醉似泥。
  ??杓,鸚鵡杯。百年三萬六千日,一日須傾三百杯。
  遙看漢水鴨頭香C恰似葡萄初??。此江若變作春酒,
  壘麹便築糟丘台。千金駿馬換小妾,笑坐雕鞍歌落梅。
  車傍側掛一壺酒,鳳笙龍管行相催。咸陽市中歎?犬,
  何如月下傾金罍。君不見晉朝羊公一片石,
  龜頭?落生莓苔。?亦不能為之墮,心亦不能為之哀。
  清風朗月不用一錢買,玉山自倒非人推。舒州杓,力士鐺,
  李白與爾同死生。襄王雲雨今安在,江水東流猿夜聲。



襄陽歌
落日欲沒?山西,倒著接籬花下迷。
襄陽小兒齊拍手,?街爭唱白銅?。
傍人借問笑何事,笑殺山翁醉似泥。
落日は没せんと欲 ?山の西に、倒しまに接籬を著けて花下に迷う。
襄陽の小児は斉しく手を拍ち、街を?って争って唱う白銅?。
傍人は借問す何事を笑うと、笑殺す 山公酔うて泥に似たるを。
「?山」というのは襄陽の町の西南にそびえる山である。「ここに夕日が沈もうとしている」。
夕にが沈むのがきれいな襄陽の街での李白の気持ちを象微するようでもある。この襄陽はかつて竹林の七賢の年長者山濤の子、山簡が長官として治めていた所であり、山簡も酒飲みで、外出したときは常に泥酔して、白い帽子をあべこべにかぶっていたという。当時の民謡にも、そのことが歌われていた。この詩でも、その山公と同じように白い帽子をかぶって酔って李白が花の下をさまよい歩いているとみられる。「白銅?」は、梁の武帝の時、襄陽付近で流行した民謹。「襄陽の少年たちは、李白の白い帽子をかぶって泥酔しているのを笑いながら、白銅?を唱って通りを横切ってゆく。この様子を通りがかりの人が何を笑うのかと聞くと、昔の山公さまと同じように泥酔している李白の姿が、とてもおかしい」という。酔うことは李白の人生にとっては、何よりもたいせつなことでもある。

襄陽には、歓楽街の「大堤」があり、また、この時期に歌は続いて酒のことを大いに詠う。



??杓,鸚鵡杯。
百年三萬六千日,一日須傾三百杯。
遙看漢水鴨頭香C恰似葡萄初??。
此江若變作春酒,壘麹便築糟丘台。
百年三万六千日、一日須らく三百杯を傾くべし。
温かに看る漢水は鴨頭の緑なるを、恰も似たり葡萄の初めて??するに。
此の江若し変じて春の酒と作らば、塁なれる麹は便ち糟丘の台を築かん。
 うの首にまねた杓とおうむ貝で作った杯、ともに仙女の西王母の所にあったという酒器。「人生百年として三万六千日、一日三百杯は飲む必要があろう」。昔の漢の大学者鄭玄が一日三百杯欽んだといわれるように。酒飲みの李白から見れば、襄陽のそばを流れる戻水の緑の流れさえ酒に見えてくる。「鴨頭緑」とは、染色の名であり、鴨頭の緑毛色に喩えたもので、実際は漠水の青く澄んだ色をいったもの。「この波立っている漢水の緑色は、葡萄酒が湧き立って醗酵するのに似ている」。李白の想像はさらに大きく飛隠する。「この漢水で春の新しい甘い酒を作るとすれば、酒をこしたあとの麹が積み重なって、いわゆる『糟丘台』ができあがるであろう」。「糟丘台」は、昔、夏の柴王が、荒淫酒色にふけり、酒で池を作り、その糟がたまって丘となったという。
襄陽歌、李白の酒の礼贊はさらに続く。



??の杓,鸚鵡の杯。  
千金駿馬換小妾,笑坐雕鞍歌落梅。
車傍側掛一壺酒,鳳笙龍管行相催。
咸陽市中歎?犬, 何如月下傾金罍。
千金の駿馬を小き妾に換え、笑って離れる鞍に坐し落梅を歌う。
車の傍らに側めに往く一壹の酒、鳳笙竜管行ゆく相い催す。
咸陽の市中に黄犬を歎く、何ぞ月下に金の罍を煩くるに如かん。
 昔、魏の曹彰は、いつも妾を携えて、豪奢な生活をしていたが、駿馬を見て、その若き妾と交換したという。と同じように、自分も高価な駿馬を、わが若き妾と交換して求め、これに美しき鞍置いて、楽しく乗り出て落梅曲を歌う。むろん牽く車の傍らには一壹の酒が横ざまにつるされているし、もはやそれを飲んでいる。同乗の人々が奏する鳳の形をした笙、竜の鳴き声をする管でかなでる音楽はわが酒興をかき立ててくれる。これこそは李白がもっとも希望する行楽と酒興の境地である。わが人生を束縛するものもなく、自由に奔放に楽しむ境地である。こうした酒興の湧く境地は、高位高官では望むべくもない。最高の境地こそは、好きな月の光の下に酒を煩けることである。秦の李斯はもと平民の身であったが、のちに丞相となった。しかし、趙高の庸言に遭って殺されることになるが、刑に臨んで、わが子に対して、おまえと黄狗を連れ、蒼鷹を手挟み、故郷の門を出て、狩りをしたいと思うが、それも今となってはできないと嘆いたという。「こんな李斯のような宰相の身分になるよりも、月下の酒がよい」。功名富貴に捉われずに、酒徒として自由に一生を過ごしたいと願うのが、今の李白の心境である。李白はこのとき、前途に望みを託しながら実現のロを待ち続けていたが、それも思うようにはかどらず、影々としていた気持ちを酒によって解放しようとして、かく歌い上げたとみてよい。
ここで歌は調子が変わり、自分も含めての人生に思いがはせる。



  
君不見晉朝羊公一片石,龜頭?落生莓苔。
?亦不能為之墮,心亦不能為之哀。
君見ずや晋朝の羊公の一片の石、亀頭は剥げ落ちて莓苔生ず。
涙も亦た之が為に堕つる能わず、心も亦た之が為に哀しむ能わず

羊砧は、武帝の時、こう歌い、李白の酒への社賛は一転して、時間の推移と人生の空しさの惑慨に移る。発この襄陽の長官としてこの地方を治めていたが、山水を愛し、脱山にも遊び、また酒を飲み、よく詩を作った。砧が死んでから、その徳を土地の人が慕って、碑を建てて
記念した。礁を見る人々は、往時を船んで涙を流したために、この碑を「堕涙俳」と呼んだといり。「一片石」を宋本は「一片古碑材」とする。この土台石に亀を刻して置いてあるが、それが壊れて、苔が生えている。これを見ると、時間の推移と、人生の空しさに感ずるばかりである。「『涙を堕す碑』とはいわれているが、今は悲しみも起こらず、涙も出ない。思えば、死後のことなど考えてもなんの役にも立たない。むしろ生前の自由の生き方こそたいせつではあるまいか」。そもそも李白は、神仙の境地をいつも夢みる男である。自由な、解放された境地を絶えず望んでいる男である。儒教では死後の名誉のことをいうが、それもいらない。仏教では死後の世界をいうが、それも考えない。現在の自由に生きる生き方こそ願わしいことと考えていた。
 さて、上の感慨に続くものとして、宋本では次の二句が入っている。



誰能憂彼身後事、金鳬銀鴨葬死灰。
誰か能く彼の身後の事を憂えんや、金鳬銀鴨は死灰に葬らる。
 「金鳬銀鴨」はその人の身につけていた飾りものであろうか。「それも火葬の灰に葬られ埋もれ
てしまう。死んでしまえばすべてが無に帰する。死後のことは心配してもしかたがない」。やは
り生きている現在を楽しむべきであり、「それは一銭も必要としない清風であり朗月である」。と
して、



清風朗月不用一錢買,玉山自倒非人推。
清風朗月は一銭の買うを用いず、玉山自から倒る人の推すに非ず
と歌い、自然の風景を楽しむことこそ、すべての憂いを忘れさせてくれるものであるとする。昔、晋の清談家の劉侠は、清風朗月には山水を愛する親友の許拘を思い出すといったが、李白も自然の美しさには心を奪われる。その美しさを賞で、さらに酒があって陶然とすれば最高の境地である。晋の竹林の七賢の一人柚康は、酔って倒れると、玉山の頬れるが如しと山濤がいって、そのさおやかな酔態がたたえられたが、「自分も、他人が推して倒れるのでなくて、玉山がおのずから倒れ壊れるように、さわやかに酔いつぶれたいものである」。美しい白然の景色と酒があれば、自分の人生に他に求むべきものは何もないと考える。かくて酒を人生の友と考えて意気ごんだ李白も、悠久の大江を見て、定めなき人間のはかなさに、しばし感慨にふけり、長き歌は終わる。




舒州杓,力士鐺, 李白與爾同死生。
襄王雲雨今安在,江水東流猿夜聲。
舒州の杓、力士の鐺、李白爾と死生を同にせん。
襄王の雲雨は今安くに在りや、江水東に流れ猿の夜の声あり。
 「舒州」は安徽省潜山県に当たり、唐代では酒器を産するので有名。「力士錨」の「錐」は酒の
おかんをする器。「力士」はよく分からないが、唐代予州(今の江西省南昌一帯)では、力士査と
いう愛器が作られた。そのことを指すのであろうか。「こうした酒器とともに一生を送りたい」
といって、淵を愛する気持ちを述・べつつ、最後に、この付近に関係する有名な故事を引いて、人生の空しさを再び述べ、江水の東流の尽きない自然の悠久さに感慨を催し、さらにこの付近に多い猿の鳴き声にやや感傷的な気持ちになっている。猿の鳴き声は、古来旅人の情を悲しませるものとして歌われるが、ここも夜鳴く猿の声が旅にある李白を寂しい気にさせたのであろう。「襄王雲雨」は、宋玉の「高唐の賦」や「神女の賦」に出てくる話で、楚の襄王が雲夢に遊んだとき、夢で神女と遇う。その神女は巫山の娘で、旦には朝雲となり、暮れには行雨となって現われるという。「雲雨となって現われる神女と遇った楚の襄王は、今はいない。また、その神女も現われてこない。すべて過去のものとなり、あるものは永久に東流する江水ばかりである。そして、昔変わらず哀しく猿が泣き続けている」という。
こうした人間と自然との対比が見られることは、これは李白ばかりではない。多くの詩人が感ずるところであり、彼の親友杜甫もしばしばそのことを歌う。それにしても、酒器を指して「爾と死生を同にせん」といい、澗とともに生きんとする心意気は、「泗仙」といわれた李白の面目躍如たるものがある。なお、この詩をのちの天宝年間の作とする説もある。







2-3 成都から一貫して、道教に傾倒

Index-10 729年開元十七年29歳 
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
730-001

730-002

730-003

730-004

730-005

730-006

730-007

730-008

730-009

730-010

730-011

730-012

730-013

730-014

730-015

730-016

730-017

730-018

730-019

730-020


Index-U― 5-730年開元十八年30歳 
ID詩題詩文初句
730年  庚午 玄宗 開元一八年【李白三十?。安陸遭謗。春夏之交離安陸,經南陽赴長安。隱居終南山。結識崔宗之。拜見宰相張?,結識張???張?兄弟。在玉真公主別館作客。】
 730-001 酬崔五郎中(宗之)(卷十九(二)一一○二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)朔雲高天,萬
 730-002玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首 其一(卷九(一)六一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)秋坐金、張館,
 730-003玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首其二(卷九(一)頁六一二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)苦雨思白日,浮
 730-004  玉真仙人詞(卷八(一)五七七)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)玉真之仙人,時
 730-005  「北溟有巨魚」詩(古風五十九首之三十三)(卷二(一)一五一)北溟有巨魚,身
 「孤蘭生幽園」古風,五十九首之三十八(一)一六〇)孤蘭生幽園,
 730-006  烏夜啼(卷三(一)二一八)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)?雲城邊烏欲棲
 730-007  安陸白兆山桃花巖寄劉侍御綰(卷十三(一)八二三)雲臥三十年,好
 730-008  上安州裴長史書(卷二六(二)一五四四)  白聞天不言
   讀諸葛武侯傳書懷贈長安崔少府叔封昆季(卷九(一)六二二)漢道昔云季,群
  長相思【寄遠】(卷三(一)二四四)長相思,在長安
  鳳凰曲(卷六(一)四四五)?女吹玉簫,吟
  鳳臺曲(卷六(一)四四六)裳聞秦帝女,傳
 擬古十二首其二(卷二四(二)一三七四)高樓入青天,下
 感遇四首其二(卷二四(二)一三九六)可嘆東籬菊,徑
   秋山寄衛尉張卿及王?君(卷十二(一)八二九)何以折相贈,白
  夜別張五(卷十五(一)九一一)吾多張公子,別
  贈裴十四(卷九(一)六二八)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)朝見裴叔則,朗
   贈新平少年(卷九(一)六五○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)韓信在淮陰,少
  答長安崔少府叔封遊終南翠微寺太宗皇帝金沙泉見寄(卷十九(二)一○九九)河伯見海若,傲
   登新平樓(卷二一(二)一二二二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)去國登茲樓,懷
  秦女卷衣(卷五(一)三九七)天子居未央,妾
   


この時期に、なお李白の生活・思想に強く影響を与えたものは、隠士や道士たちとの交わりであった。道士の元丹丘とともに河南の嵩山(登封県北)に隠居したり、また、湖北の胡紫陽に道を訪ねたり、また、道士の呉笥とともに刻中(浙江省叫県付近)に隠居したりした。こうした道士、隠士との交わりの生活は、李白をして、現実の世間の生活を超脱して、それを鎗をする方向に走らせて、自由を求める気風を作り上げさせるようになった。あたかも、六朝・魏晋の清談家たちが、当時の礼俗に抵抗して、人間の本性のままに生きようとした生き方と似ている。かくて、しだいに李白の詩には、世の束縛から脱して、自由を慕い、道教にあこがれる詩が多く現われるようになってきた。
Index-10 729年開元十七年29歳 
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
729-001

729-002

729-003

729-004

729-005

729-006

729-007


Index-U― 6-731年開元十九年31歳 
ID詩題詩文初句
 731-000731年 辛未 玄宗 開元一九年 下終南山,西遊?州?坊州。 】
 731-001下終南山過斛斯山人宿置酒(卷二十(二)一一六五)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白 》?)暮從碧山下,山
 731-002贈裴十四(卷九(一)六二八)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)朝見裴叔則,朗
 731-003登新平樓(卷二一(二)一二二二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)去國登茲樓,懷
 731-004贈新平少年(卷九(一)六五○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)韓信在淮陰,少
 731-005 酬坊州王司馬與閻正字對雪見贈(卷十九(二)一一一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)遊子東南來,自
731「燕昭延郭隗」古風,五十九首之十五(卷二(一)120)燕昭延郭隗,
731「燕昭延郭隗」古風,五十九首之十六(卷二(一)123)寶劍雙蛟龍,
731「大車揚飛塵」古風,五十九首之二十四(卷二(一)138)大車揚飛塵,
731 ?客行(卷三(一)二七五)趙客縵胡纓,?
731 幽澗泉(卷四(一)二九七)拂彼白石,彈吾
731 相逢行(卷六(一)四二五)朝騎五花馬,謁
731 結襪子(卷四(一)三二三)燕南壯士?門豪
731 少年子(卷六(一)四三三)青雲少年子,挾
731少年行二首其一(卷六(一)四三五)?筑飲美酒,劍
731少年行二首其二(卷六(一)四三六)五陵年少金市東
731擬古十二首其七(卷二四(二)一三八○)世路今太行,迴

 次にあげる詩《懷仙歌(卷八(一)五七六)》は、このころ作られたものかどうかは分からない。ひたすら道教を求め、仙道を訪ねる考え方を表わす詩である。作られるにふさわしい年代とすれば、この時期に当てはめてもおかしくはない。




「懷仙歌」(仙を懐う歌) 
一鶴東飛過滄海,放心散漫知何在?
仙人浩歌望我來,應攀玉樹長相待。
堯舜之事不足驚,自餘囂囂直可輕。
巨鰲莫載三山去,我欲蓬?頂上行。
一鵜東に飛び游海を過ぎ、心を放やかにして散漫やかに何れに在るかを知らんや。
仙人は浩く歌って我を望んで来たり、応に玉樹に単りて長く相い待つなるべし。
堯舜の事は驚くに足らず、自余のものの733-003たるは直だ軽んず可し。
巨鰲は三山を戴きつつ去ること莫かれ、我は蓬莱の頂上に行かんと欲す。
 
Index-10 729年開元十七年29歳 
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
729-001

729-002

729-003

729-004

729-005

729-006

729-007

Index-U― 7-732年開元二十年32歳 
ID詩題詩文初句
732年 壬申 玄宗 開元二0年 李白三十二?。春,由坊州回長安終南山。在長安與鬥?徒衝徒。五月,離長安,由?河東下至梁苑。回安陸。

732-001  春歸終南山松龍舊隱(卷二三(二)一三三五)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)我來南山陽,事
732-002  「大車揚飛塵」詩(古風五十九首之二十四)(卷二(一)一三八)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》
732-003行路難三首其一(卷三(一)二三八)金樽清酒斗十千
732-004行路難三首 其二(卷三(一)二四○)大道如青天,我
732-005行路難三首其三(卷三(一)二四二)有耳莫洗潁川水
732-006  蜀道難(卷三(一)一九九)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)01噫吁(口戲
732-007 以詩代書答元丹丘(卷十九(二)一一○六)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)青鳥海上來,今
732-008  梁園吟(卷七(一)五○○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)我浮?河去京闕
732-009  送梁公昌從信安王北征(卷十七(二)一○二四)入幕推英選,捐


これは仙境にあこがれて、そこに行きたいと願う詩であるが、当時の李白から見れば儒教のような現実主義的な生き方は性に合わなかったであろう。亮・舜のような聖人さえも無視している。理想は天上のかなたにある仙界である。まさしく夢みる男であるといえよう。ここに現われている考え方が当時のものであるとすれば、当時一般のしきたりに従って、科挙の試験をまともに受けて、官吏に登用されるというコースは、彼に望むべくもない。
 もっとも一ロに道教といっても、はなはだ複雑な思想である。がんらい不老長寿を願う民間信仰をもとにして、やがて老子・荘子の教えが加わり、唐代になると、修行を目指しての一つの教団ができあがる。修行する者を道士といい、俗世間を超越して、不老不死を目指し、仙人となることを目標としていた。唐の開元・天宝の問〈七Ξ−七罷〉にはこの道教が最も流行し、国教とさえみなすことができる状態であった。したがって、当時の人々が、道教を信奉することは、別な
一つの目的を持つことにもなってきた。それは利禄にありつく手段の一つでもあるとみなされていたようである。だから、李白の道教信奉も、考えようによっては、政治の舞台に出る一つの手段であったとも考えることができる。しかし、結局においては、道教へのあこがれは、李白をしてますます自由にふるまい、物に束縛されない奔放不鵜の人間にしたことはまちがいない。むろん生来の李白の性格も相まってのことではある。彼の初志は、あくまで政治の舞台にのり出し、官僚として天子の側近に侍り、中枢の政治に参画することであったが、今やその望みは実現されない。いってみれば、このころの李白の姿は、まったく瓢々として放浪しつつ、道を求めて歩く隠士のようでもあった。

Index-10 729年開元十七年29歳 
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
729-001

729-002

729-003

729-004

729-005

729-006

729-007

Index-13U― 8-733年開元二十一年33歳 
ID詩題詩文初句
733  癸酉 玄宗 開元二一 閏三月 應元丹丘邀請,赴嵩山隱居。結識元演。往來於洛陽?襄漢?安陸之間。曾至隨州訪問道士胡紫陽。
 733-001  元丹丘歌(卷七(一)四九二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)元丹丘,愛神仙
733-003懷仙歌(卷八(一)五七六)一鶴東飛過滄海
 733-002  題隨州紫陽先生壁(卷二五(二)一四三七)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)神農好長生,風
 733-003  冬夜於隨州紫陽先生餐霞樓送煙子元演隱仙城山序(卷二七(二)一五九一)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)吾與霞子元丹、


 また、李白、三十歳(開元十八年)のころ、出会った友人の一人に、詩人であり隠士でもある襄陽郊外の鹿門山に隠居し、飲酒作詩の生活を送っていた。李白は孟浩然に出会ってから、その生活態度に敬服して交わりを結び、交友の情はすこぶる厚かった。いったい、李白と交遊関係のあった詩人は、あまり多くはなかった。王昌齢・杜甫・賈至らがあるが、李白の称賛を受けた詩人としては孟浩然が第一にあげられるであろう。なお、李白の集中には、孟浩然に関する詩を何首か見いだしうるが、黄鶴楼で、孟浩然が広陵(揚州)に行くのを送った詩は有名である。
  卷168_1 《贈孟浩然》李白
  卷168_3 《淮海對雪贈傅靄(一作淮南對雪贈孟浩然)》李白
  卷169_18 《游?陽北湖亭望瓦屋山懷古贈同旅(一作贈孟浩然)》李白
  卷173_5 《春日歸山,寄孟浩然》李白
  卷174_24 《?鶴樓送孟浩然之廣陵》李白

Index-10 729年開元十七年29歳 
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
730-001

730-002

730-003

730-004

730-005

730-006

730-007

730-008

730-009

730-010

730-011

730-012

730-013

730-014

730-015

730-016

730-017

730-018

730-019

730-020


Index-U― 9-734年開元二十二年34歳陽。
ID詩題詩文初句
734  甲戌 玄宗 開元二二年李白三十四?。在襄陽拜見荊州長史韓朝宗。至江夏,遇宋之悌。與崔宗之遊南 陽。
 734-001  江夏別宋之悌(卷十五(一)九五○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)楚水清若空,遙
 734-002  梁甫吟(卷三(一)二一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)長嘯梁甫吟,何
 734-003  大堤曲(卷五(一)頁三七一)漢水臨襄陽,花
 734-004  江上吟(卷七(一)四八○)木蘭之竝ケ棠舟
 734-005  江夏行(卷八(一)五七四)憶昔嬌小姿,春
 734-006  江夏送友人(卷十八(二)一○七二)雪點翠雲裘,送
 734-007  江夏送張丞(卷十八(二)一○七三)欲別心不忍,臨
 734-008  赤壁歌送別(卷八(一)五七○)二龍爭戰決雌雄
 734-009  送二季之江東(卷十八(二)一○七四)初發強中作,題
 734-010  送張舍人之江東(卷十六(二)九五二)張翰江東去,正
 734-011  秋夜宿龍門香山寺奉寄王方城十七丈奉國瑩上人從弟幼成令問(卷十三(一)八三朝發汝海東,暮
 734-012  ?山懷古(卷二二(二)一二九六)訪古登?首,憑
 734-013寄遠十二首其一(頁一四六五)三鳥別王母,銜
 734-014寄遠十二首其二(頁一四六六)青樓何所在?乃
 734-015寄遠十二首其三(頁一四六七)本作一行書,殷
 734-016寄遠十二首其四(頁一四六七)玉(竹助)落春
 734-017寄遠十二首其五(頁一四六八)遠憶巫山陽,花
 734-018寄遠十二首 其六(頁一四六九)陽臺隔楚水,春
 734-019寄遠十二首其七(頁一四六九)妾在舂陵東,君
 734-020寄遠十二首其八(頁一四七○)憶昨東園桃李紅
 734-021寄遠十二首其九(頁一四七一)長短春草香C?
 734-022寄遠十二首其十(頁一四七二)魯縞如玉霜,筆
 734-023寄遠十二首其十一(頁一四七三)美人在時花滿堂
 734-024寄遠十二首其十二(頁一四七三)愛君芙蓉嬋娟之
 734-025  嵩山採菖蒲者(卷二五(二)一四五八)神人多古貌,雙
 734-026  瑩禪師房觀山海圖(卷二四(二)一四二九)真僧閉精宇,滅
 734-027襄陽曲四首其一(卷五(一)三七四)行樂處,歌舞白
 734-028襄陽曲四首其二(卷五(一)三七五)醉酒時,酩酊高
 734-029襄陽曲四首其三(卷五(一)三七六)?山臨漢江,水
 734-030襄陽曲四首其四(卷五(一)三七六)且醉習家池,莫
 734-031  襄陽歌(卷七(一)四七三)落日欲沒?山西
 734-032  題元丹丘山居(卷二五(二)一四三八)故人棲東山,自
 734-033  贈張公洲革處士(卷九(一)六六三)列子居鄭圃,不
 734-034  題元丹丘潁陽山居并序(卷二五(二)一四三九)  丹丘家於潁
 734-035  贈嵩山焦?師并序嵩山有神人焦?
 734-036  贈僧行融(卷十二(一)八○七)梁有湯惠休,常
 734-037 與韓荊州書(卷二六(二)一五三九)白聞天下談士相
 734-038  冬日於龍門送從弟京兆參軍令問之淮南覲省序紫雲仙季,有英
 734-039  江夏送林公上人遊衡岳序(卷二七(二)一五六○)江南之仙山,?
 734-040  奉餞十七翁二十四翁尋桃花源序(卷二七(二)一五五六)昔祖龍滅古道,
 734-041  送?鐘之?陽謁張使君序(卷二七(二)一五六八)東南之美者,有
 734-042  夏日諸從弟登汝州龍興閣序(卷二七(二)一五八七)夫槿榮芳園,?
 734-043  暮春江夏送張祖監丞之東都序(卷二七(二)一五五五)吁咄哉,僕書室

北の孟浩然〈六八九−七四つ〉がある。孟浩然は李白より十一歳年長であって、このときはすでに
2-4洛陽・太原・斉魯に遊ぶ

 李白は三十五歳のころ、安陸を離れて、洛陽を経、太原に遊ぶが、洛陽では、有名な(735-003)春夜洛城聞笛(卷二五(二)一四五八)がある。



  《卷184_19 春夜洛城聞笛》「春夜洛城にて笛を聞く」
誰家玉笛暗飛聲?散入春風滿洛城。
此夜曲中聞折柳,何人不起故園情?
誰が家の玉笛ぞ暗に声を飛ばす、散じて春風に入って洛城に満つ。
此の夜の曲中折柳を聞く、何人か故園の情を起こさざらん。

この詩は、じつに太原に行くときの途中のものかどうかは十分分かりかねるが、あるいは帰るときかもしれない。太原から帰るときは、洛陽を通過し、親友の道士元丹丘に会っているから、 帰るときは確かに洛陽を通っている。とすると、行くときも通ったかもしれない。そのときの詩としてみてまちがいない。太原に行く途中、洛陽僣在中の詩だとすると、開元二十三年〈七憂〉、李白三十五歳のときのものである。 この詩、郷愁に駆られる思いを歌い、「貳か故郷を想わざる」感情を歌ったものである。その感情をかき立てるものは、今は旅の身であることである。また「故園の情」である。ここでいう「故園の情」の故郷とは、いずこの地を思っているのか。若き二十五歳のころ出て、その後帰ったことのない故郷蜀の地であろうか。彼は故郷の山河を懐かしんでいるが、その蜀の一族については終生触れることはなかった。思うに、李白は、妻子を持って、やや安住していた安陸を今や離れての旅である。とすると、ここで「故園」とは、安陸を指すものと考えられよう。さて旅の身で、物を思わせる春の夜、寂しき音を立てる笛、静かな洛陽城に響きわたる。しかもその曲は、別れの曲である「折柳」曲である。この曲は、がんらい旅立つ人を見送るとき、楊柳を手折って贈る風習があり、その別れを歌った曲である。
 李白は、洛陽を過ぎ、やがて北方の山酉の太原に赴いた。そして、親友の元君の父の家の客となり、ここで楽しい生活をした。太原では、次の(735-001)《太原早秋(卷二二(二)一二七○)》の詩を残している。

Index-10 729年開元十七年29歳 
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
729-001

729-002

729-003

729-004

729-005

729-006

729-007

Index-15U― 10-735年開元二十三年35歳 
ID詩題詩文初句
735 乙亥 玄宗 開元二三 閏十一月五月間,與元演同遊太原。秋,由太原經洛陽回安陸。
735-001  太原早秋(卷二二(二)一二七○)?落?芳歇,時
735-002  「青春流驚湍」詩(古風五十九首之五十二)青春流驚湍,朱
735-003  春夜洛城聞笛(卷二五(二)一四五八)誰家玉笛暗飛聲
735-004  「碧荷生幽泉」詩(古風五十九首之二十六)碧荷生幽泉,朝
735-005  「燕趙有秀色」詩(古風五十九首之二十七)燕趙有秀色,綺
735-006  贈郭季鷹(卷九(一)六四五)河東郭有道,於
735-007 秋日于太原南柵餞陽曲王贊公賈少公石艾尹少公應舉赴上都序(卷二七(二)一五七○)  天王三京,

Index-16U― 11-736年開元二十四年36歳 
ID詩題詩文初句
736 丙子 玄宗 開元二四岑勳千里尋訪李白至嵩山。元丹丘請李白至嵩山相會。
 736-001  酬岑勳見尋就元丹丘對酒相待以詩見招(卷一九(二)一一一五)?鶴東南來,寄
 736-002  將進酒(卷三(一)二二五)(參見卷十(一)七○三醉後贈從甥高鎮、卷十四(一)八七四自漢
 736-003 宴陶家亭子(卷二十(二)一一八六)曲巷幽人宅,高
 736-004  登單父陶少府半月臺(卷二一(二)一二一四)陶公有逸興,不
 736-005  任城縣廳壁記(卷二八(二)一五九五)風姓之後,國為




卷181_6 《太原早秋》李白
?落?芳歇,時當大火流。
霜威出塞草,雲色渡河秋。
夢遶邊城月,心飛故國樓。
思歸若汾水,無日不悠悠。

歳は落ち衆芳は歇み、時は大火の流るるに当たる。
霜威は塞より出ずれば早く、雲色は河を渡れば秋なり。
夢は遶る辺城の月に、心は飛ぶ故国の楼に。
帰るを思うこと汾水の若く、日として悠悠たらざるは無し。

 この詩は、735年、開元二十三年、三十五歳のときのものであろう。「秋となり木の葉の落ちる時節となる」。「大火流」は、『詩経』の幽風「七月」に「七月流火」とあり、大火心星が七月には西に流れること。つまり、「時は七月に当たっている」。「霜の戴しさは、国境のとりでを出ると内地より早く感ぜられるし、雲色は黄河を渡るともう秋である。国境の城を照らす月を見ると夢は駆けめぐり、思いは故郷の楼に飛んでゆく」。この場合「故国」とは、安陸を指すのであろう。
「厨水」は太原近くを流れて黄河に入る。近くを流れてゆく洽水の流れは、はるかに流れて黄河に注ぎ、やがて海に入る。「その流れのごとく、故郷をはるかにいつも思わぬ日とてない」。李白は異国の太原の秋に惑じて、妻子を残した故郷を偲んでいる。これも望郷の歌といってよい。
 ところで、太原時代を回想して作った「旧遊を億い、誂郡の元参軍に寄す」がある。この詩は若き日の遊びの追憶であり、長篇の古体の詩である。この篇中、後半に「元参軍」と太原に遊ぶことが出てくる。元參軍は名は演であるが、太原で遊びを共にした以後も、しばしば各地で酒船飲み、行楽を共にしている。李白にとって忘れがたい詩亥、酒友であった。この詩、当時の「旧遊」が李白自身の口から語られ、また元君との友情、美人の妓を携えての行楽を、見事な表現で描写した、自伝風な詩である。ただ、作られた年代は明らかでなく、諸説はあるが、今明らかにしようがない、宋本には題下に「金陵」と注している。これを信ずれば、天宝十三年〈七謳〉に金陵に遊んでいること明らかであるから、そのころのものとすると、李白五十四歳のときであろうか。歌はまず洛陽における宴遊の思い出、元参車との真心を尽くした交遊を述べ、自分と交遊するのは当代の賢俊であり、高傑の志を持つ人々であった。これは杜甫の「壮遊」にもある「交わりを結ぶは皆な老蒼なり」と、やや似ているが、李白のほうが誇大にいっているようではある。なかでも、「君とは莫逆の友となり、真心を尽くした交わりであった。その後別れて再び会ったが、それはかの漢束における楽しい交遊であった」と、李白は侠かしさをもって述べている。
 このときの元君との遊楽はよほど楽しかったとみえ、その遊びにふけった様子をはなはだ具体的に描写している。すなわち、「きみと仙境を尋ね、嵩山の曲がりくねった渓谷を経て、多くの谷川を渡ったこともあった。時しも威儀を正した漢東郡(湖北省随県)の長官が迎えに来てくれたし、紫陽真人(姓は胡)も迎えに来てくれたりした。そして、髪霞楼では鸞鳳に似た伯楽で大歓迎であった」。このときは李白の得意の時であり、おそらく「王侯を軽んずる」意気であったにちがいない。長官も李白に礼を尽くして歓待してくれた。
 「漢東の太守は酔ってみずから舞って歓迎し、錦袖も掛けてくれるし、自分は無礼にも酔って太守の股の上を枕として寝てしまった」。のちに長安に入り、酔って高力士に靴を脱がせた事件があったと伝えられる、が、太守の膝を枕とした奔放の酔いぶりから見ると。高力士、脱靴事件は真実であったかもしれない。
 「当日の宴会では、天をしのぐほど意気盛んであったが、その宴会も、互いに散り散りに散会すると、ほんの一時のものであった。影の地で、それぞれはるかに分かれ、自分は故郷(安陸であろうか)へ、君は渭橋(長安の西、渭水にかかる)へと別れてしまった」と、楽しい遊びのあとの別れの寂しさをこめて歌っている。
 さて、ここで元君と太原の辺に行遊したことを回想して歌う。すなわち、「元君の父が井州(太原)の長官をして、よく北方を治めていた。その縁で、時は五月、太行山脈の羊腸の坂を越えて太原に行くことになった。そして、元君の歓待を受けた」。そして、「元君の歓待により、北寒の地で帰心も消え、思わず時間がたってしまった。そのときの遊覧は、城酉の周の唐叔虞をまつった祠まで出かけ、そこで舟を浮かべ蕭鼓を鳴らして舟遊びをした。水は竜の鱗のように美しく、川辺の草も緑であった」。かくて、




  卷172_15 《憶舊遊,寄?郡元參軍》李白
憶昔洛陽董糟丘,為余天津橋南造酒樓。 ?金白璧買歌笑,一醉累月輕王侯。
海?賢豪青雲客, 就中與君心莫逆。迥山轉海不作難,傾情倒意無所惜。
我向淮南攀桂枝,君留洛北愁夢思。不忍別,還相隨。
相隨迢迢訪仙城,三十六曲水回?。一溪初入千花明, 萬壑度盡松風聲。
銀鞍金絡倒平地,漢東太守來相迎。 紫陽之真人,邀我吹玉笙。
餐霞樓上動仙樂, ?然宛似鸞鳳鳴。袖長管催欲輕舉,漢中太守醉起舞。
手持錦袍覆我身,我醉眠枕其股。當筵意氣?九霄,星離雨散不終朝,分飛楚關山水遙。
餘既還山尋故?, 君亦歸家渡渭橋。君家嚴君勇貔虎,作尹並州遏戎虜。
五月相呼度太行,摧輪不道羊腸苦。行來北涼?月深,感君貴義輕?金。
瓊杯綺食青玉案,使我醉飽無歸心。時時出向城西曲,晉祠流水如碧玉。
浮舟弄水簫鼓鳴,微波龍鱗莎草香B興來攜妓恣經過,其若楊花似雪何。
紅妝欲醉宜斜日,百尺清潭寫翠娥。翠娥嬋娟初月輝,美人更唱舞羅衣。
清風吹歌入空去,歌曲自繞行雲飛。此時行樂難再遇,西遊因獻長楊賦。
北闕青雲不可期,東山白首還歸去。渭橋南頭一遇君,?台之北又離群。
問餘別恨知多少,落花春暮爭紛紛。言亦不可盡,情亦不可極。
呼兒長跪緘此辭,寄君千里遙相憶。




興來攜妓恣經過,其若楊花似雪何。
紅妝欲醉宜斜日,百尺清潭寫翠娥。
興来たれば妓を携え経過を恣にし、其れ楊花雪に似たるを若何んせん
紅粧のひとは酔わんとし斜日に宜く、百尺の清潭に翠蛾を写す
「雪のごとく舞う楊花の下に妓女を携えての行遊」は、最も印象に残り、心を楽しませたものであった。「夕日の下に美しく粧った酔った紅い顔の美女は、清らかな川の水に映る」。そして、



翠娥嬋娟初月輝,美人更唱舞羅衣。
清風吹歌入空去,歌曲自繞行雲飛。
翠蛾は憚娼として初月は輝き、美人は更がわる唱い羅衣を舞わす
清風は歌を吹いて空に入って去り、歌曲は自から行く雲を続って飛ぶ
 「たおやかな美女がかわるがわる唱って薄い衣を翻して舞う。おりから三か月の光、歌は風とともに去り、実の辺りに届く」。まことに美女をともにしての宴会は楽しき極みであった。

 この太原における遊びは、漢東の遊びにもまして、印象が深かったにちがいないし、妓女を連れての遊びは終生忘れがたいものであったろう。さればこそ、その揃写は精緻であり、リズムは軽快である。
 ここで当時の楽しい行遊の回想は終わり、「此の時の行楽は再び遇い難し」といって、元君との遊楽の楽しさを思い浮かべているが、後年の定めなき放浪中の李白にあっては、それは身に沁みて感じたことであろう。さて、「元君と別れて西の長安に入り楊雄のごとく詩を作って宮仕えしたが、宮中では青実の高き位にも登らず、白髪を抱えて〈東山〉(東魯であろうか)に隠居することになった」。そして、「消橋で再会したと思うと、また鄭台(調郡にある。誂郡は今の安微省毫県)で別れることになった」。その別れの恨みは、「落花 春の暮れに争って紛々たり」に似て、心は千々に乱れているといい、この「言い尽くせぬことば、気持ち、それを詩に託し、これを封鍼して、はるかに君に送ることにする」といって、回想の長き歌はここで終わっている。
 この詩、元君との再会、離別を述べているが、そのうち最も力を入れているのが、太原における二人の行楽の遊びであり、それは「再び遇い難し」と述慎するほど記億に残る遊びであったし、李白の奔放の遊びを示す詩でもある。
 太原では、のちの名将となる郭子儀とも交わる。郭子儀は、安禄山・史思明の反乱を平定した功により洽陽王に封ぜられたし、代宗の時は、回総の大軍を退け、徳宗の時に、太尉、中書令に進み、尚父の号も賜わり、卒して忠武と温される。唐朝を二十年余にわたって支えた大忠臣といえよう。李白が、太原で会ったときは、名もなき軍人であった。このとき、郭子儀が些細な罪を得ていたのを救ってやったともいわれ、郭子儀は、その恩に感じて、後年、李白が永王璃の幕下になった理由で罪を得たのを救ってやったともいわれている。


 秋を経てまもなく、彼は斉魯(今の山東地方であるが、そのうち任城〔済寧県〕と沙邱〔植県〕に多く住む)に遊び、また泰山の南、祖棟山の下の竹渓に、孔巣父ら五人とともに隠れ、詩酒に明け暮れして、「竹渓の六逸」と呼ばれていたこともある。
 このときの隠居生活や李白の気持ちを表わすものに「韓準・裴政・孔巣父の山に還るを送る」詩がある。これも開元二十三年〈七豆〉、三十五歳のころのものであろう。
いったい、隠遁というものが、山水に隠れ住むようになったのは、六朝の晋・宋のころである。世間を俗なものとみて、それを超脱して別の世界を求めた。それが山水であるが、ただ、当時の人は、山水に親しんで、自然を眺めていたわけではない。それは当時流行の老荘思想にあこがれて、老荘の目指す道を求めようとしていた。老荘の道、あるいは真ともいうが、それは人工的な人間世界にはなくて、自然のままにある山水にこそあると考えて、人々は山水へとあこがれて住むことになり、そこに住むことによって道に近づくことができると考えた。それが隠遁である。陶淵明が「飲酒」の詩でいう「其の中にこそ真あり」というのがそれで、其の中とは「山の気日夕べに佳く、飛ぶ鳥は相い与に還る」という自然の風景である。この中に真理があると考えていた。陶淵明は当時の人々の考えを代表するものである。むろん同時代の謝霊運の考えるように、自然に美があるとも考えるようになってきた。
 今、李白たちの「六逸」の考え方も、当時の道家思想による隠遁であり、やはり老荘的考え方が中心となっている。自然の中に道があり、自然に親しむことによって道家の道が会得できると考えていた。
 右の詩にも、同志に対する友情を示すとともに、李白の世俗を超越し、官職にこだわらない隠遁的な気持ちを示している。ただ李白は、こうした隠遁的な一時期もあったが、やはり心の中には、何かを期待し、何かをしよりといり心意気があった。それは世間一般の人々の考えているようなも0ではなく、もっと大きく天下の政治に参与して蒼生を救おうという心意気であった。それは天子の側近となり、天下の政治に参画しようという期待であったにちがいない。そのためには、凡人の考える一時的な名誉など問題にならないし、また大きな希望を遂げるには、しばらくは諸国を遍歴することなど当然のことであると考えていたにちがいない。
 こうした心意気を示すものに、この山東に行ったころ作られた「五月、東魯の行、?上の翁に答う」がある。
 「いまだ仕えぬ身でありながら剣だけ学んで、この養蚕織物盛んな山東に来て、これから先の道を聞くと、李白の剣を提げた物々しさに、佼上(滋陽県の西北)の翁に笑われた」。李白はその笑いに答えて、その心意気を示していう。
 



 卷178_3 《五月東魯行,答?上君(一作翁)》李白
  五月梅始?,蠶凋桑柘空。魯人重織作,機杼鳴簾?。
  顧餘不及仕,學劍來山東。舉鞭訪前途,獲笑?上翁。
  下愚忽壯士,未足論窮通。我以一箭書,能取聊城功。
  終然不受賞,羞與時人同。西歸去直道,落日昏陰虹。
  此去爾勿言,甘心為轉蓬。

下愚忽壯士,未足論窮通。
下愚のものは壮士を忽せにし、未だ窮通を険ずるに足らず
 「窮通」は、『易』に、「窮するものは変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し」というに基づく。
「ばかな者に理想を追う〈壮士〉たるおれの気持ちが分かるか。いまに大きな仕事をしてやる。
そんなことは分かるまい」と声を荒げていう。これは当時の李白の意気盛んな気持ちを表わした
ものであり、おそらく佼上の翁のみならず、当時の人々は李白の行動と考え方を理解する者が少
なかったにちがいなく、かえって侮る人があったのであろう。こうした人々に対する激しい反論
でもある。さて、自分の心意気こそは、
我以一箭書,能取聊城功。
終然不受賞,羞與時人同。
我は一箭の書を以って、能く聊城の功を取る
終然に賞を受けず、時人と同じきを羞ず

であり、当時の人と考え方がちがうという。「聊城」は、今、山東省に聊城県がある。それにちなんだ故事を用いる。『史記』魯仲連伝に、「戦国の時、斉の田単が、燕軍が占領している聊城を攻めたが退かない。よって魯仲連が箭書を城中に射ると、燕将が感位して自殺し、聊城が降った。田単は魯仲連に爵位を与えようとしたが、受けないで海上に隠れた」という。「自分はそのくらいの功績はいつでも立てることはできるが、それによって賞を受け取るような普通の人ではない」「時人と同じきを羞ず」という自負心を李白は強調したかったのである。そして、これからの放浪は、自分の人生の出発であるという。



西歸去直道,落日昏陰虹。
此去爾勿言,甘心為轉蓬。
西のかたに帰り直道を去かん、落日に陰虹は昏し
此を去らん爾言うこと勿かれ、甘心す転蓬の如きに

 はじめの二句は比喩的であり、西の長安を目指してまっすぐな道を行くことと、「直しき道」
をこれから歩くこととをかけている。また、「時に夕日がさし、暗い虹が薄暗くかかっている」
ことを描写して、長安の政治の不安のさまを象微している。「自分は好んで転蓬の身に甘んじて、
かくのごとく各地方を放浪している。それは承知の上だ。とやかくいってくれるな」。「転蓬」と
は、魏の曹植も、わ、が不安定の身の上によく喩えているが、「甘心す転蓬の如きに」は、李白の
決意をはっきりと示しているものであって、当時の放浪も覚悟の上であり、やがては一旗挙げて
やる、見ていろという強い自信が背後に燃えているのが感ぜられる。
 山東を離れて、ついで江蘇・安徽・浙江に漫遊して、およそ十余年の歳月を費やしている。




51・戦争と遊猟

Index-10 729年開元十七年29歳 
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
730-001

730-002

730-003

730-004

730-005

730-006

730-007

730-008

730-009

730-010

730-011

730-012

730-013

730-014

730-015

730-016

730-017

730-018

730-019

730-020


Index-17U― 12-737年開元二十五年37歳 
ID詩題詩文初句
737 丁丑 玄宗 開元二五李白三十七?。安陸。(郁賢皓《謫仙詩豪李白》生平大事年表未有記述)
737-001  大庭庫(卷二一(二)一二一三)朝登大庭庫,雲
737-002  早秋單父南樓酬竇公衡(卷十九(二)一○九四)白露見日滅,紅
737-003  早秋贈裴十七仲堪(卷九(一)六○○)遠海動風色,吹
737-004東魯門泛舟二首其一((卷二十(二)頁一一五三)日落沙明天倒開
737-005東魯門泛舟二首其二((卷二十(二)頁一一五三)水作青龍盤石?
737-006  金?薛少府廳畫鶴讚(卷二八(二)一六三○)  高堂閑軒兮
737-007  送方士趙叟之東平(卷十六(二)九八○)長桑?洞視,五
737-008  送梁四歸東平(卷十八(二)一○七一)玉壺挈美酒,送
737-009  詠鄰女東窗海石榴(卷二四(二)一四一八)魯女東窗下,海
737-010  魯郡葉和尚讚(卷二八(二)一六三八)  海英岳靈,
737-011  魯城北郭曲腰桑下送張子還嵩陽(卷十六(二)九九六)送別枯桑下,凋
737-012贈范金?二首其一(卷九(一)頁六○三)君子往清?,不
737-013贈范金?二首其二(卷九(一)頁六○五)范宰不買名,絃
737-014  贈瑕丘王少府(卷九(一)六○五)皎皎鸞鳳姿,飄
737-015  觀博平王志安少府山水粉圖(卷二四(二)一四二三)粉壁為空天,丹

Index-18U― 13-738年開元二十六年38歳 
ID詩題詩文初句
738 戊寅 玄宗 開元二六李白三十八?。安陸。(郁賢皓《謫仙詩豪李白》生平大事年表未有記述)
738-001 丁都護歌(卷六(一)四二二)雲陽上征去,兩


Index-10 729年開元十七年29歳 
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
730-001

730-002

730-003

730-004

730-005

730-006

730-007

730-008

730-009

730-010

730-011

730-012

730-013

730-014

730-015

730-016

730-017

730-018

730-019

730-020


Index-19U― 14-739年開元二十七年39歳 
ID詩題詩文初句
739 己卯 玄宗 開元二七李白三十九?。安陸。秋在巴陵,遇王昌齡。
739-001  月夜江行寄崔員外宗之(卷十三(一)八五一)飄?江風起,蕭
739-002見京兆韋參軍量移東陽二首 其一(卷九(一)頁六○七)潮水還歸海,流
739-003見京兆韋參軍量移東陽二首 其二(卷九(一)頁六○八)聞?金華渡,東
739-004  夜泊牛渚懷古(卷二二(二)一三一四)牛渚西江夜,青
739-005 春日歸山寄孟浩然(卷十四(一)八七○)朱?遺塵境,青
739-006  寄淮南友人(卷十三(一)八三五)紅顏悲舊國,青
739-007 與元丹丘方城寺談玄作(卷二三(二)一三二五)茫茫大夢中,惟
739-008  潁陽別元丹丘之淮陽(卷十五(一)九一五)吾將元夫子,異
739-009  題瓜洲新河餞族叔舍人賁(卷二五(二)一四四○)齊公鑿新河,萬
739-010  贈孟浩然(卷九(一)五九三)吾愛孟夫子,風
739-011  贈從兄襄陽少府皓(卷九(一)五九四)結髮未識事,所


Index-10 729年開元十七年29歳 
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
730-001

730-002

730-003

730-004

730-005

730-006

730-007

730-008

730-009

730-010

730-011

730-012

730-013

730-014

730-015

730-016

730-017

730-018

730-019

730-020


Index-20U― 15-740年開元二十八年40歳 
ID詩題 
740 庚辰 玄宗 開元二八許氏夫人約卒於此年。李白帶子女赴東魯。此後幾年,一直在東魯。與韓準?裴政?孔?父?張叔明?陶?等隱於徂徠山,酣歌縱酒,時號「竹溪六逸」。
740-001 五月東魯行答?上翁(卷十九(二)一○九三)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)五月梅始?,蠶
740-002  嘲魯儒(卷二五(二)一四五二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)魯叟談五經,白
740-003 客中作(卷二二(二)一二六九)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)蘭陵美酒鬱金香
740-004  南都行(倦七頁四七八)南都信佳麗,武
740-005  南陽送客(卷十六(二)九五一)斗酒勿為薄,寸
740-006 「殷后亂天紀」詩(古風五十九首之五十一)殷后亂天紀,楚
740-007 遊南陽白水登石激作(卷二十(二)一一四九)朝?白水源,暫
740-008  遊南陽清冷泉(卷二十(二)一一五○)惜彼落日暮,愛

Index-21U― 15-741年開元二十九年41歳 
ID詩題 
741 辛巳 玄宗 開元二九魯郡?州。
741-001  關山月(卷四(一)二七九)明月出天山,蒼

 李白が江南地方を歴遊していた開元の末年は、唐の国家の国力は最も充実し、外に向かっては吐蕃・契丹・突餓と盛んに戟争をして勝利を得ている。『新唐書』の「玄宗紀」によると、開元二十五年〈七一毛〉三月には、幽州の節度使張守珪が契丹と捺禄山に戦い、破っている。また、同月、河西の節度副大使崔希逸が吐蕃と青海で戦って破っている。二十六年〈翌八〉三月には、崔希逸が侵入した吐蕃を破っている。九月には、益州の長史王豆が吐蕃と安戎城で戦っている。二十七年〈七一元〉八月には、侵入した吐蕃を河西隋右の節度使蕭具が破っている。二十八年〈七四つ〉三月には、益州の司馬章仇・兼瓊が安戎城で吐蕃を破っている。五月には、また兼瓊が吐蕃を安戎城で破っている。当時の全国の人口は四、ハー四万余といわれ、米一斛の価は銭二百にも満たぬ廉価で、農民は征役と米価の安さに苦しんでいたといわれる。
 いつの世でも同じであるが、勝利の反面には、絶えず人々は戦争による苦しみも味わっている。李白の目には、こうした外国異民族との戦争がいかに映じたであろうか。「古風」という題の詩が五十九首ある。これは連作であるが、一時にできたものではない。その時々の感慨を述ベたものである。「古風」というのはいにしえぶりということで、『詩経』の国風のごとく、時世を風刺する意味を持たせたものであろう。「その十四」は、戦争の空しさを風刺している。




  
卷161_14 《古風,五十九首其十四》

古風,五十九首其十四
胡關饒風沙,蕭索竟終古。
木落秋草?,登高望戎虜。
荒城空大漠,邊邑無遺堵。
白骨千霜,嵯峨蔽榛莽。
借問誰?虐,天驕毒威武。
赫怒我聖皇,勞師事?鼓。
陽和變殺氣,發卒騷中土。
三十六萬人,哀哀?如雨。
且悲就行役,安得營農圃。
不見征戍兒,豈知關山苦。
李牧今不在,邊人飼豺虎。
(古風,五十九首之十四  #1)
胡関 風沙靡く、粛索 責に終古。
木落ちて 秋草黄ばみ、高きに登りて 戎虜を望む。
荒城は 空しく大漠、辺邑に 遺堵無し。
白骨 千霜に横たわり、嵯峨として 榛葬に顧わる。」
借問す 誰か陵虐す、天騎 威武を毒す。
我が聖皇を赫怒せしめ、師を労して 輩鼓を事とす。
陽和は 殺気に変じ、卒を発して中土を騒がしむ。」
三十六万人、哀哀として、涙 雨の如し。
且つ悲しんで、行役に就く、安くんぞ農圃を営むを得ん。
征戊の児を見ずんば、豈 関山の苦しみを知らんや。
李牧 今在らず、辺入 豺虎の飼となる。
Index-28 《古風五十九首之十四》Index-28W-3 749年天寶八年49歳526-#1古風,五十九首之十四胡關饒風沙, <Index-28> 
 この詩は、匈奴のために出兵する悲しみを歌いつつ、李牧のような名将の出現を願って、早く国境の不安をなくしてもらいたいという主旨である。しかし、前半には戦争による犠牲が、いかに空しいものであるかが歌われている。
 「胡地へ通ずる関所、昔も今も変わらぬわびしさ、時は秋、なおわびしさをかき立てる。高い所に登って異国の地を望むと、目に入るものは、曹からの戦争の跡の悲惨さである。砂漠の中に荒れはてた城がぽつりと立ち、その町のまわりの斟も、壊れてなくなっている。そこには千年の昔から白骨が横たわって、うずたかく積もって雑草に蔽われている」。
 この姿を見て、李白の目には戦争の空しさが身にしみたであろう。戦争の空しさ、悲惨さは、古えの詩人も多く歌う。魏の陳琳の「飲馬長城窟行」がそうであり、古楽府の「戦城南」がそうであり、また「従軍行」と題する詩で、多くの詩人が歌っている。これらは枚挙にいとまがないが、ただ中国の詩には、戦争を否定した反戦の詩は現われてこない。戦争を宵定しつつ、その悲惨さを歌うにとどまっている。李白もそうである。
 「だれがこんなひどい日に遭わせたのか」と問いかけ、それは、「天の騏子と自任する匈奴が武
力を振るったのだ。だからわが聖天子が、大いに怒って無理に出兵して、戦いを始めたのだ」。 「陽和の気が殺気となり、出兵のため中国全土が大騒ぎとなる」。「三十六万人」とは、出征兵士の多いことをいったもので、具体的に指してはいない。「家族と涙を流して別れて出てゆく。悲しみのうちに出征しようとするが、留守宅では男手を取られて、農業を営むことができない」。
 吟かが出征兵士を見送って作った「兵車行」にも、「辺庭には血を流し海水と成る、武皇は辺を開いて意は未だ已まず、君聞かずや漢家山東二百州、千邨万落に荊杞を生ず、縦い健婦の鋤摯を把る有るも、禾は隋猷に生ずるに西東無し、況んや復た秦兵は苦戦に耐え、駆らるること犬と鶏とに異ならざるおや」といって、戦争に駆りたてられて、もはや働く男手がない、留守中の女手で耕しても稲が十分生えないという。そして、杜甫はこの詩の最後に、李白と同じよりなことをいう。「君見ずや青海の頭、古来白骨人の収むる無し、新鬼は煩冤み旧鬼は哭き、天陰り雨温おうとき声は楸楸たり」という。杜甫も李白も身にしみての感慨である。李白はこの詩の最後を、出征兵士に同情して、「出征兵士の実情を見ない者は、国境の苦しみなど分からない。とにかく早く李牧のような名将が出て、辺境の戦争を収めてもらいたい。でないと、国撹を守る人々は、豺や虎のような中国侵略を狙う敵軍を養っているような状態である」という。「李牧」は、戦国時代、趙の名将であって、代地方の雁門(山酉省代県西北)に出て匈奴を破り、国境に近づけなかった、という。この詩を事実と関係づけて解釈する諸説があるが、しばらく開元の末年ごろの詩としておく。
 ところで、李白には必ずしも戦争の空しさを歌う詩ばかりではない。むしろ剣を常に手挟む傲岸不鵬0李白の目には、勇猛果敢な勇士の姿のほうが、あるいはより好ましく映じているかのようでもある。
かつて太原にあるとき、辺境の風物をつぶさに日のあたりに見たときの歌であろう。次の詩
「行き行きて且に遊猟せんとするの篇」がある。
卷162_9 《行行遊且獵篇》(卷三(一)二二九)李白

邊城兒,
生年不讀一字書,但將遊獵誇輕?
胡馬秋肥宜白草,騎來躡影何矜驕。
金鞭拂雪揮鳴鞘,半酣呼鷹出遠郊。
弓彎滿月不?發,雙?迸落連飛?.
海邊觀者皆辟易,猛氣英風振沙磧。
儒生不及遊?人,白首下帷複何益。
(行き行きて游び且つ獵の篇)
辺城の児、生年一字の書を読まず。但だ遊猟を知って 輕?【けいきょう】を誇る。
胡馬秋肥えて 白草に宜し。騎し来って影を踏む 何ぞ矜驕【きょうきょう】。
金鞭【きんべん】雪を払って 鳴鞘【めいしょう】を揮)い、半酣【はんかん】鷹を呼んで 遠郊に出づ。
弓は満月を彎いて 虚しく発せず、双?【そうそう】迸落【ほうらく】 飛?【ひこう】に連なる。
海辺観る者 皆辟易【へきえき】し、猛気英風 沙磧【させき】に振う。
儒生は及ばず 遊侠の人に、白首 幃【い】を下すも 復た何の益かあらん。

 太原近くの辺城を歌ったものであろうか。「国境の町の少年たちは、一生一字の書も読まず、すばしこさを誇る遊猟を考えているだけ」。「白草」は、北方に生える白色の草で、「その草は馬が食べるにふさわしく、食べて胡馬はこの秋に肥った。馬に少年たちが乗っている姿はすばやくていかにも誇らしくおごっている」。北方の少年たちが馬に乗って草原を駆けめぐる姿を歌い、ついでその猟の様子を歌う。
 北方は秋でも雪が降りしきる。「金鞭で雪を払いつつ、鞭を揮う。揮えば鞭が鳴る。今日は鷹狩りである。酔いも半ばで鷹を連れて遠い郊外に出る。満月に引きしぼる弓、矢は的中する。二羽のなべ鵜が、かぶら矢に連なって、どっと落ちてくる」。すばらしい弓の腕前の少年たちであると、少年たちの雄々しさをたたえる。かくて、
北方の草原や砂漠の中にある湖を「海」という。「そのあたりの見物人は、みな驚き入るし、少年たちの勇気と雄々しさは砂漠に存分に発揮されている」。
 さて、最後に李白の感想を述べる。いったい、「学者は遊侠の徒には及ばない」という。そして、『漠書』の「董仲舒伝」をふまえていう。董仲舒は漢代の有力学者であって、景帝の時、博士となった。「家に閉じこもり、カーテソを下ろして弟子に教授した。外には順番を待つ弟子が列をなした」という。白髪の顛になるまでカーテンを下ろして、董仲舒のように弟子を教えたとして、何の利益があるのかと、詰問するかのごとくいう。これは国家を治める政治には役に立たぬではないかというのであろう。遊侠は李白の少年時代から好むところであり、彼には任侠的性格ががんらいあった。その性格が、この詩に現われて、ここでは勇壮な辺境の少年を歌いつつ、遊侠の徒をたたえたものであり、それとともに学者を非難している。といりことは、おそらく当時の科挙制度によって試験を受けることを軽視しているとみてよかろう。一方では戦争による苦しみを歌い、一方では遊侠をたたえる。李白の心は、一見矛盾しているごとく左右に揺れ勤くが、それは責めるには当たらない。一方では政治に参画することを夢みつつ、一方では神仙の世界にあこがれ、隠遁を賛美する。これも矛盾するごとく見えるが、感受性の強い李白の心が、刺激を受けた、そのときそのときの惑情を率直に歌ったまでである。一貫していえることは、自然を愛し、奔放不鴨にふるまい、絶えず夢を見ていたことは終生変わらない。
卷163_1 《關山月》李白

關山月
明月出天山,蒼茫雲海間。
長風幾萬里,吹度玉門關。
漢下白登道,胡窺青海灣。
由來征戰地,不見有人還。
戍客望邊色,思歸多苦顏。
高樓當此夜,歎息未應閑。
(關山月)
明月 天山より出づ,蒼茫たる 雲海の間。
長風 幾萬里,吹き度る 玉門關。
漢は下る 白登の道,胡は窺う 青海の灣。
由來征戰の地,見ず 人の還る有るを。
戍客 邊色を望み,歸るを思うて 苦顏多し。
高樓 此の夜に當り,歎息して 未だ應に閑なるべからず。
  李白335 巻三01-《關山月》(明月出天山,) 335Index-23V― 2-743年天寶二年43歳 94首-(16) <李白335> T李白詩1648 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6788
  
    











6−‐泰山に遊ぶ


Index-22 742年天寶一年42歳
壬午 玄宗 天寶一四月,遊泰(太)山。攜子女南下,寄居南陵。秋,奉詔入京,召見於金鑾殿,命待詔翰林。侍從遊?泉宮。
年  ID   詩題   (李白集校注) 詩文・初句
742-001 遊太山六首其一(卷二十(二)頁一一五四) 四月上泰山,石
742-002 遊太山六首其二(卷二十(二)一一五六) 清曉騎白鹿,直
742-003 遊太山六首其三(卷二十(二)一一五六) 平明登日觀,舉
742-004 遊太山六首其四(卷二十(二)一一五七) 清齋三千日,裂
742-005 遊太山六首其五(卷二十(二)一一五八) 日觀東北傾,兩
742-006 遊太山六首其六(卷二十(二)一一五九) 朝飲王母池,暝
742-007 南陵別兒童入京(卷十五(一)九四七) 白酒新熟山中歸
742-008 侍從遊宿?泉宮作(卷二十(二)一一六七) 羽林十二將,羅
742-009 駕去?泉宮後贈楊山人(卷九(一)六二五) 少年落魄楚漢間
742-010 ?泉侍從歸逢故人(卷九(一)六二七) 漢帝長楊苑,誇
742-011 之廣陵宿常二南郭幽居(卷二二(二)一二六 告接柴門,有
742-012 王右軍(卷二二(二)一二八九) 本清真,瀟灑在
742-013 天台曉望(卷二一(二)一二一五) 天台鄰四明,華
742-014 白田馬上聞鶯(卷二五(二)一四六二) ??啄紫椹,五
742-015 早望海霞邊(卷二一(二)一二一六) 四明三千里,朝
742-016 別儲?之?中(卷十五(一)九二五) 借問?中道,東
742-017 焦山望松寥山(卷二一(二)一二一八) 石壁忘松寥,宛
742-018 酬張司馬贈墨(卷一九(二)一○九七) 碧松煙,夷陵丹
742-019 與從姪杭州刺史良游天竺寺(卷二十(二)一一六二) 挂席凌蓬丘,觀
742-020 贈徐安宜(卷九(一)五九八) 見楚老,歌詠徐
742-021 擬恨賦(卷一(一)一四) 晨登太山



 天宝元年〈西一〉、四十二歳のとき、彼は泰山に遊び、遊仙的気分を味わいつつ、壮大な景色を歌っている。
 《遊太山六首其一(卷二十(二)頁一一五四)》(太(泰)山に遊ぶ)六首がそれである。宋本にある古い注によると、「一に『天宝元年四月、故の御道従り太山に上る』に作る」とあり、年月がしるしてある。これを信ずれば、天宝元年の作であり、待望の長安入りに先立つ三、四か月前の作である。「太山」は、五岳の一であって、中国一の名山といわれ、道教の信仰の中心地でもある。また、古えより天子の封禅の祭祀を行なう重要な山である。時に開元十三年〈七一冠〉、玄宗は泰山を封じている。そのとき天子が登るために改修した道路が「御道」である。「その御道を通り、四月に太山に上った」が、道教を奉ずる李白にとっては待ち望んでいた遊覧であるJ 「そのこの詩には、
 「かつて、天子の車は、多くの谷を過ぎ、モの谷川はいまでもめぐりくねって流れている」、また、「そのときの天子の乗った馬の足跡が、いまでも青苔の上にいっぱいに残っている。高き峰より滝水が落ち、松風の音も悲しく響く。まことに幽逞の山水である」といい、さて、ここからの眺めは、仙境的眺めである。すなわち、

北眺?嶂奇,傾崖向東摧。
洞門閉石扇,地底興雲雷。
登高望蓬瀛,想象金銀臺。
天門一長嘯,萬里清風來。
北を眺れば ?嶂奇なり,傾崖 東に向って摧く。
洞門 石扇を閉じ,地底 雲雷を興す。
高きに登って蓬瀛を望み,想象す 金銀の臺。
天門 一たび 長嘯すれば,萬里 清風來る。

 「悶璋」とは、昇風のような山。「蓬礦」は蓬莱と猿州なる神山。東海の中に三神山ありといわれ、以上の二つのほかに方丈がある。「泰山に登ると、はるか東の海上にそれが見えるかのごとく思われる」。「金鋒」は、道教でいり天帝の出す詔書。「台」とは、それを手わたす所であろう。
「泰山の高きに登れば東灘の仙人の住む神山が見え、天帝の住む辺りが見えそうだ」。「天門」は、泰山の頂上近くにある南天門。天上に通ずるとされる。「こうした所で長碓すると、万里のかなたより清風が吹いてきて、世俗を超越して、すがすがしい気分になる」。もはやここは仙境でもある。さればこそ、

玉女四五人,飄?下九垓。含笑引素
手,遺我流霞杯。

稽手再拜之,自愧非仙才。曠然小宇
宙,棄世何悠哉。
玉女 四五人,飄? 九垓より下る。
笑を含んで 素手を引,我流霞の杯を遺る。
稽首して 之を再拜し,自ら仙才に非らざるを愧づ。
曠然として 宇宙を小とし,世を棄つる何ぞ悠なる哉。
「九天より仙人に仕える少女四、五人が下って白き手で流霞の杯をくださる」。「流霞」とは、
たなびく霞であるが、霞は、仙人の飲み物であって、朝焼け、夕焼けの気である。もはや李白自
身、が仙境に入った心持ちであり、「かくて宇宙も問題にならず、世俗も離れて、遠き別天地にあ
る心境となった」といい、しばし夢見ごこちで仙界に遊ぶ姿が歌われている。

 この詩は、泰山の雄大さを歌うとともに、仙境でもあることをも歌う。仙境に入り、仙人と同
じような心持ちになることは、李白のあこがれでもあり、彼の詩にしばしば歌われるところであ
る。これが李白の詩の一つの大きな特色である。親亥の杜甫は仙境は歌わない。同時の詩人王維
は、静寂境は歌うが、仙境は歌わない。まったく李白の独壇場である。
 いったい、李白の理想は、仙境に入り神仙になることであったであろう。むろん神仙そのもの
にはなれぬことは知っている。そこでその神仙の境地に近づき、仙境の夢幻の世界に遊ぼうと努
力している。したがって、諸国の神仙的名山・名勝を訪ね、神仙的気分を味わい、その神仙的雰
囲気を詩に表わしている。これは唐代の同時の詩人のまねのできぬ表現である。李白を、理想を
目指す人、夢みる人と評する所以でもあり、剽逸詩人といわれる要素の」つでもあろう。
 李白は仙境にあこがれたために、各地の名山を訪ねる。泰山に登ったあとに、南に足を向けて
現心ド(浙江省縁県)に赴いた・このあたりは名勝の多い所である1時に李白の慕う道士の釘敵も
たまたま遊覧に来ていた。そこで李白は、道士呉笥と共にしばし刻中に隠居生活を送ることに
なる。

卷179_6 《游泰山六首(天寶元年四月從故禦道上泰山)》
遊太山六首其一(卷二十(二)頁一一五四)

游泰山六首
(天寶元年四月從故禦道上泰山)
四月上泰山,石平御道開。
六龍過萬壑,澗谷隨?迴。
馬跡遶碧峰,於今滿青苔。
飛流灑??,水急松聲哀。
北眺?嶂奇,傾崖向東摧。
洞門閉石扇,地底興雲雷。
登高望蓬瀛,想象金銀臺。
天門一長嘯,萬里清風來。
玉女四五人,飄?下九垓。
含笑引素手,遺我流霞杯。
稽手再拜之,自愧非仙才。
曠然小宇宙,棄世何悠哉。
(泰山に遊ぶ,六首の一)
【自註:(742年)天寶元年四月,故の御道 從り 泰山に上る。】
四月、泰山に上る、石平にして御道開く。
六龍、萬壑を過ぎ、澗谷、随って?廻。
馬跡碧峰を繞り,今に青苔に滿つ。
飛流 ??に灑ぎ,水急にして松聲哀し。
北を眺れば ?嶂奇なり,傾崖 東に向って摧く。
洞門 石扇を閉じ,地底 雲雷を興す。
高きに登って蓬瀛を望み,想象す 金銀の臺。
天門 一たび 長嘯すれば,萬里 清風來る。
玉女 四五人,飄? 九垓より下る。
笑を含んで 素手を引,我流霞の杯を遺る。
稽首して 之を再拜し,自ら仙才に非らざるを愧づ。
曠然として 宇宙を小とし,世を棄つる何ぞ悠なる哉。
  李白
  (從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)

李白313-#1 《巻十九07遊泰山,六首之一【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》#1Index-22 V―1742年天寶元年42歳 18首 <李白313-#1> T李白詩1620 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6648

遊太山六首其二(卷二十(二)一一五六)

遊太山六首其二
清曉騎白鹿,直上天門山。
山際逢羽人,方瞳好容顏。
捫蘿欲就語,卻掩青雲關。
遺我鳥跡書,飄然落巖間。
其字乃上古,讀之了不閑。
感此三嘆息,從師方未還。
(泰山に遊ぶ,六首の二)
清曉 白鹿に騎し,直に上る 天門の山。
山際 羽人に逢う,方瞳 好容顏。
蘿を捫して 就いて語らんと欲すれば,卻って掩う 青雲の關。
我に鳥跡の書を遺り,飄然として巖間に落つ。
其の字は 乃ち上古,之を讀む 了に 閧ネらず。
此れに感じて 三たび歎息,師に從って 方に未だ還らず。
(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)

李白314 《巻十九08遊泰山,六首之二【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》Index-22 V―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白314> T李白詩1623 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6663

遊太山六首其三(卷二十(二)一一五六)

遊太山六首其三
平明登日觀,舉手開雲關。
精神四飛揚,如出天地間。
?河從西來,窈窕入遠山。
憑崖覽八極,目盡長空閑。
偶然?青童,埼尸ヤ雲鬟。
笑我?學仙,蹉?凋朱顏。
躊躇忽不見,浩蕩難追攀。
(泰山,六首之三)
平明、日觀に登り、手を挙げて雲関を開く。
精神 四に飛揚、天地の間を出づるが如し。
黄河、西より来たり、窈窕、遠山に入る。
崖に憑って八極を攬し,目盡きて長空閧ネり。
偶然 青童に?う,埼宦@雙雲の鬟。
笑う 我が?に仙を學び,蹉? 朱顏を凋む。
躊躇 忽ち見えず,浩蕩 追攀し難し。
李白315 《巻十九09遊泰山,六首之三【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》315Index-22 V―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白315> T李白詩1624 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6668

遊太山六首其四(卷二十(二)一一五七

遊太山六首其四
清齋三千日,裂素寫道經。
吟誦有所得,?神衛我形。
雲行信長風,颯若羽翼生。
攀崖上日觀,伏檻窺東溟。
海色動遠山,天?已先鳴。
銀臺出倒景,白浪翻長鯨。
安得不死藥,高飛向蓬瀛。
(泰山,六首の四)
清斎三千日、素を裂いて道經を寫す。
吟誦して得る所あり、衆~、我が形を衞る。
雲行いて、長風に信せ、颯として、羽翼を生するが若し。
崖を攀じて日觀に上り,檻に伏して東暝を窺う。
海色 遠山に動き,天? 已に 先づ鳴く。
銀臺 倒景を出で,白浪 長鯨を翻す。
安んぞ不死藥を得ん,高飛して 蓬瀛に向わん。
李白316#1 《巻十九10遊泰山,六首之四【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》316#1Index-22 V―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白316#1> T李白詩1626 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6678

遊太山六首其五(卷二十(二)一一五八)

遊太山六首其五
日觀東北傾,兩崖夾雙石。
海水落眼前,天光遙空碧。
千峰爭?聚,萬壑?凌?。
緬彼鶴上仙,去無雲中跡。
長松入霄漢,遠望不盈尺。
山花異人間,五月雪中白。
終當遇安期,於此?玉液。
(遊泰山,六首の五)
日観、東北に傾き、兩崖、雙石を夾む。
海水、眼前に落ち、天光、遙空 碧なり。
千峰、爭って?聚、萬壑、?だ凌?。
緬たる彼の鶴上の仙、去って雲中の跡なし。
長松、雲漢に入り、遠望すれば、尺に盈たす。
山花、人間に異なり、五月、雪中に白し。
終に當に安期に遇ひ、此に於て玉液を錬るべし。
李白317-#1 《巻十九11遊泰山,六首之五【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》317-#1Index-22 V―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白317-#1> T李白詩1628 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6688

遊太山六首其六(卷二十(二)一一五九)

遊太山六首其六
朝飲王母池,暝投天門關。
獨抱阪Y琴,夜行青山間。
山明月露白,夜靜松風歇。
仙人遊碧峰,處處笙歌發。
寂靜?清輝,玉真連翠微。
想象鸞鳳舞,飄?龍虎衣。
捫天摘匏瓜,?惚不憶歸。
舉手弄清淺,誤攀織女機。
明晨坐相失,但見五雲飛。
(泰山に遊ぶ,六首の六)
朝に 王母の池に飲み,暝に 天門の關に投ず。
獨り阪Yの琴を抱き,夜 青山の間を行く。
山 明かにして 月 露白く,夜 靜かにして 松風 歇む。
仙人 碧峰に遊び,處處に 笙歌發す。
寂靜 清暉を?み,玉真 翠微に連る。
想象す 鸞鳳の舞,飄?たり 龍虎の衣。
天を捫して 匏瓜を摘み,恍惚として 歸えるを憶わず。
手を舉げて 清淺を弄し,誤ちて攀ず 織女の機。
明晨 坐ろに相い失し,但見る 五雲の飛ぶを。
李白318-#1 《巻十九12遊泰山,六首之六【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》318-#1Index-22 V―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白318-#1> T李白詩1630 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6698

inserted by FC2 system